書評・まとめ 『聖なる王権 ブルボン家』 長谷川 輝夫 ②


ブルボン王朝の内政に関わるポイント

前回の記事で、ブルボン家に関わる女性を手掛かりに、王朝の歴史をざっと纏めてみたが、本書がこういう構成になっているわけではない。(これは飽くまで私の個人的趣味です)本書では、政治的な事柄を時系列に並べて、ブルボン家の歴史を綴っている。ブルボン王朝の歴史について、政治的な面でポイントとなる点を以下、挙げておく。

まず、国内の状況については、大貴族が親王と結託して企てる王権に対する反乱、それと、プロテスタントを筆頭とする宗教的勢力との戦い、がある。

分家勢力とフロンドの乱

王朝の始まりは、当然ながら内政が不安定である。ブルボン王朝と言えば、太陽王ルイ14世の「朕は国家なり」の言葉が示すように、絶対王政の象徴のように思われがちだが、アンリ4世が、ヴァロワ朝の正式な嫡子であるアンリ3世と、先先代の王の妃にあたるメアリ・スチュアートの実家であり、フランス・カトリック勢力の代表であるギーズ家のアンリという「3アンリ」の戦いを制して即位したように、元を辿れば彼も、諸侯の「One of them」にしか過ぎないのだ。ブルボン王朝の前半は、特に、分家勢力と結託した諸侯の内乱に度々悩まされることになる。

ルイ13世の時代には、ナヴァル王の分家であり、アンリ4世のいとこの子供にあたるコンデ公が政権に揺さぶりをかけ、全国三部会の招集を要求する。摂政のマリー・ド・メディシスは、大貴族や親王に多額の年金をばらまいたり、全国三部会を逆手にとり、自分たちの支持勢力を送り込んだりの画策で対抗する。彼女が失脚した後、実権を握る宰相リシュリューに対しては、国王の寵臣サン・マルが、王弟のガストン・ドルレアンと共謀して、リシュリュー暗殺計画を企てる。陰謀は未然に発覚して、サン・マルは処刑されるものの、王弟は全ての罪をサン・マルに押し付けて、逃げ切る。

最大の内乱は、なんといっても、ルイ14世治下に起きた「フロンドの乱」である。長引く三十年戦争とスペインとの戦いの影響から財政が逼迫、増税を巡ってパリ高等法院がまず反旗を翻す。そこに、ルイ13世時代にも不穏な動きを見せたコンデ家勢力が絡んでくる。フロンドの乱第一期には、大コンデと呼ばれるコンデ親王が国王側勢力として、その弟のコンチ親王がパリ高等法院側として兄弟で戦いを繰り広げる。第二期には、宰相マザランが高等法院を味方につけ、次第に勢力を増す大コンデと戦う。前述のガストン・ドルレアンも、マザランを見限り、国王勢力は最大のピンチを迎えるが、高等法院と共にパリ市民の支持を得て、なんとか反乱勢力を平定するのである。昨日の味方は今日の敵、その逆も然り、と勢力が入り乱れて非常に分かりにくい、「フロンドの乱」だが、この国内最大の内乱を治めて初めて、ルイ14世の絶対王権が固まったのであった。

しかしまた、ルイ15世の時代には、大叔父のフィリップ・ドルレアンが摂政として勢力をふるい、フランス革命でルイ16世が処刑され直系が途絶えてのちは、そのドルレアンの末裔がルイ=フィリップとして王政復古で担ぎ出されたことなどを考えると、分家勢力というのは、ブルボン家のみならず全ての王家にとって常に油断のならない目の上のたんこぶ的存在である、ということを念頭に置いておいた方がいいだろう。

宗教的勢力との戦い

もう一つ、内政で重要なポイントは、宗教勢力との戦いである。そもそも、ブルボン王朝が始まる前には、フランス内で血で血を洗う熾烈なユグノー戦争が繰り広げられており、さらに、アンリ4世が当初はプロテスタント勢力であったにも関わらず、国王に即位するために3度も改宗をしなければならなかった、というブルボン王朝の始まりから見ても分かる通り、プロテスタント勢力とは常に緊張関係にあった。

アンリ4世時代こそ、有名な「ナント王令」により、プロテスタントの信教の自由を約束したものの、彼が熱狂的なカトリック信者に暗殺されルイ13世の世に移ってから以降、ブルボン王家はむしろプロテスタントの弾圧に注力するようになる。

ルイ13世時代には、港町ラ・ロシェルで、イギリスからの後押しを受けたプロテスタント勢力が武装蜂起し、激しい攻防戦が繰り広げられている。ルイ14世に至っては、1685年に「ナント王令」の撤回を内容とするフォンテーヌブロー王令を発令。プロテスタントの信仰の自由を全面的に否認したこの厳しい王令のせいで、フランスからは約20万人のプロテスタントが亡命し、国内の経済に打撃を与えたとされる。フランス革命の下火は、既にこの頃から準備されていたのである。

ブルボン王朝の外交に関わるポイント

国外については、スペインからオーストリアに移るハプスブルク家勢力との戦いと、台頭してくるイギリスとの関係、というのが大きな2つのポイントになるだろう。

ライバルはスペインからハプスブルク家へ

アンリ4世が、国内のカトリック派を抑えるために、それを擁護するスペインに宣戦布告したように、フランスブルボン家にとって、外部の最大の敵は当初スペインだった。ルイ13世の妃アンヌ=ドートリッシュ、ルイ14世の妃マリア=テレサと、2代続けてスペインから王妃を招いたのも、スペイン懐柔の為に他ならない。

しかし、ルイ13世時代、三十年戦争に突入してから、段々様相は変わってくる。先述したように、ルイ13世はプロテスタント勢力とのラ・ロッシュ攻防戦に見るように、宗教的にはカトリック国家を自認していたから、当初は神聖ローマ帝国側として参戦した。だが、フェルディナント2世がスペインだけでなく、ザクセンやバイエルンをも取り込んでボヘミア支配を確立すると、急激なハプスブルク家勢力の拡大を恐れた宰相リシュリューは、外交方針を翻し、プロテスタント側に味方するのである。

プロテスタント側の首領は、スウェーデン国王グスターヴ2世、有名なクリスティーナ女王の父親である。老獪なリシュリューは表立って皇帝・スペイン側と戦うことを避け、まずはグスターヴ2世に対して資金援助をする「ベールヴァルティ協定」を結ぶ。勇猛なグスターヴ2世が戦死し、皇帝軍・スペイン軍が優位に立つと、背に腹は変えられず、オランダ、スウェーデンと同盟を結び、ついにスペイン及び皇帝軍と全面戦争に突入する。ここにいたり、ライヴァルは、スペインから徐々にハプスブルク家に比重がシフトしていく。

ルイ14世の時代になると、フロンドの乱後、国内を平定したマザランは、スペインとの和平交渉を有利に進めるため、イギリスと同盟を結ぶ。そして、ルイ14世とスペイン王女マリア=テレサの結婚を交換条件に、和平条約「ピレネー条約」を結び、スペイン領ネーデルラントの国境沿いのいくつかの都市を獲得する。

四分の一世紀も続いたフランスとスペインの長い戦争がやっと終わった。この戦争でスペインの国力はすっかり消耗し、もはやフランスにとって脅威となることはないだろう。

マリー・ド・メディシス、アンヌ・ドートリッシュと、2代続けて皇太后とが実権を握ったにも関わらず、マリア=テレサがそれに続けなかったのは、こうした背景も影響しているかもしれない。

ルイ15世の時代になると、既に最大のライバルは、スペインではなくオーストリア=ハプスブルク家に代わっている。ルイ15世がスペイン王女との婚約を一方的に破棄し、身分としてはかなり格下のポーランド元国王の娘マリ・レクザンスカヤと結婚したのも、この辺りの事情が関係しているかもしれない。その後、フランスはスペインと同盟関係を結び、オーストリアに宣戦布告して、ポーランド継承戦争に介入、漁夫の利的に、ロレーヌ公国を併合することになったのは先に述べた。

その後も、カール6世亡き後、皇女マリア=テレジアが皇位を継ぐことにプロイセン王が異議を唱えたことをきっかけに、オーストリア継承戦争にも介入する。緊張の続くオーストリアとの関係改善を図るため、次のルイ16世にハプスブルク家から王妃が迎えられることになる。言うまでもなく、マリー・アントワネットである。かように、フランス王妃の歴史を辿ることは、フランスの外交史を辿ることと同義なのである。

イギリスとの微妙な関係

宿敵をスペイン、オーストリアと変えていき、最後にブルボン家の最大の外敵となったのはイギリスである。ブルボン王朝の前半戦は、イギリスとは微妙な関係を保っていた。先述した通り、ルイ13世時代に国内のプロテスタント勢力がラ・ロシェルで蜂起した際には、イギリスがプロテスタントを支援して援軍を送っているが、ルイ14世時代には、スペインとの戦いの為、イギリスと同盟関係を結んでいる。状況に応じて敵になったり味方になったり、お互いに相手を利用して付かず離れずの状況が続いてきた。

しかし、オーストリア継承戦争の途中から、フランスとイギリスは対立し始め、ルイ15世時代の最後には、「七年戦争」では全面的にイギリスと軍事対決することになる。火種となるのは、新大陸の植民地での利害の衝突だ。絶対王政から帝国主義へと時代が移り変わろうとしていた。この「七年戦争」で、フランスはイギリスだけでなく、オーストリア・プロイセンとも戦うことになり、国際的に孤立してしまう。結果、「パリ条約」及び「フベルトゥスブルク条約」で、カナダ、ミシシッピ以東のルイジアナ、西インド諸島のセント・ヴィンセント、トバゴ、ドミニカ、グレナダ諸島、セネガル、ミノルカ島などをイギリスに譲渡し、植民地のほとんどを失うことになる。

七年戦争で屈辱的な思いをしたフランスは、ルイ16世時代に変わってから、再度、アメリカ独立戦争に介入して、イギリスと戦い、今度は勝利して一部の領土を回復する。しかし、投入されたコストに対して、得られたものはあまりに少なかった。結局、この戦争の莫大な経費が、ブルボン王朝の瀕死の財政にトドメをさすことになる。その後、革命に至る経緯についてはあまりに有名なので、ここで繰り返すまでもないだろう。

まとめ

以上、ブルボン家の歴史について、人物を中心にした通史と、内政と外交という観点から気づいたことを纏めてみた。繰り返すが、本書はこういう構成になっているのではなく、時系列で説明している。しかし、一つ一つの項目はできるだけ簡潔に分かりやすく、それでいながら、実に色々な視点を盛り込んで説明してくれているので、フランス史の入門書としては最適だと思う。

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