20世紀ドイツの思想家ベンヤミンのエッセイ4話を収録。ベンヤミンと本書の名前については、白川昌夫の名著『美術、市場、地域通貨をめぐって』で何度か触れられており、興味を持った。
ベンヤミンはマルクス主義者なのでファシズムやソビエトの政治などについての言及も多く、美術論というよりも哲学論。ここ数年、社会史や経済史の本を読んでは、マルクス主義に行き当たり、マルクスを知ろうとすればヘーゲルやカントまで遡らなくてはならなくて、読みやすい新書や哲学史の本などでお茶を濁すと、また同じ問題に行き当たる、というのを繰り返している。本の薄さで『共産党宣言』までは手を出したものの、さすがに『資本論』に挑戦する気概もなくて、マルクスの周りをぐるぐる回っている感じ。しかし、昼間に主婦がスタバで読むには、ブックカバー必須の本ではある(笑)
それはさておき、ベンヤミンの本書は、解説者のあとがきによれば、《晦渋難解をきわめる(ベンヤミンの文章の中では)比較的平易に書かれている》らしいが、哲学苦手な私にとっては十分難解。映画が新しい映像化芸術として論じられているあたりは、随分古い感じもするが、これからの芸術の方向性を示唆する部分も多い。
印象的だった点1.
芸術論でよく言及される「アウラ」の概念。
ここで失われてゆくものをアウラというのを概念でとらえ、複製技術のすすんだ時代のなかでほろびてゆくものは作品のもつアウラである、といいかえてもよい。(P15)
アウラの定義は、どんなに近距離にあっても近づくことのできないユニークな現象、ということである。(P17)
芸術作品の一回性とは、芸術作品が伝統とのふかいかかわりのなかから抜けきれないということである。(P18)
大衆が芸術作品の複製技術を得ることによって、芸術作品の礼拝的価値ではなく展示的価値に重きが置かれるようになる。
印象的だった点2.
大衆の芸術作品への関与の仕方
このようにだれでも、事情によっては、芸術作品のなかに顔を出すことができるのである。…読者はつねに執筆者になりうるのである。…ソヴィエトでは、事実、労働そのものが発言しはじめている。(P32)
芸術におけるアウラの消滅と大衆の参与。ベンヤミンのエッセイは、そこからファシズム芸術の弾劾に繋がっていくが、現代はどうか。ベンヤミンがこれを書いた頃とは比較にならないほどに、芸術の複製と再現性とそして大衆の参与が進んだ現代。実は答えはまだ出ていないのではないだろうか。
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