全米図書賞の翻訳部門を受賞した柳美里さんの小説。柳美里さんの作品は長らく読んでいなかったが、受賞のニュースを知って興味が沸いた。
全米図書賞と言えば、1950年から続く権威ある文学賞であり、『世界の8大文学賞』でも紹介されていた。私が読んだ作品だけでも、ジョン・アーヴィング『ガープの世界』、アリス・ウォーカー『カラーパープル』やコーマック・マッカーシー『すべての美しい馬』など印象的なものが多い。翻訳部門というのがあるのは初めて知ったのだが、過去、日本からは原著で川端康成『山の音』、多和田葉子『献灯使』の他、『樋口一葉 その文学と生涯』や『とはずがたり』などもあり、随分日本びいきだな、とちょっと意外な気持ちがした。
柳美里さんの全米図書賞受賞は、小川洋子さんのブッカー国際賞ノミネートと並んで、日本の文学界では大きなニュースとなったが、小説の中身については、中々批評が難しい内容でもあった。ストーリーは、JR上野駅公園口で暮らすホームレスの男が主人公で、1964年東京オリンピック前年に福島県から出稼ぎ労働者として上京し、高度経済成長下の中でも苦しい生活を強いられ、仕事や家族を失う顛末、ホームレスとなって上野公園で暮らす様子や、たびたび行われるホームレス強制退去の「犬狩り」、全てを失った後でなお故郷を襲う東北大震災のニュース、などが、主人公の男の独白形式で語られている。
そして、この「居場所のない人々」の対比として象徴されているのが「天皇」である。柳美里さんが在日韓国人であることや、東日本大震災を機に福島県の南相馬市に転居していることなどを勘案して、当然そこに政治的なメッセージを読み取る人も多いと思われる。中々デリケートな問題を含んでいるが、小説の表現自体は、天皇個人はもちろん、天皇制を直接攻撃したり批判したりする内容では全くない。天皇は、あくまで現代日本の「光」の象徴として扱われている。「光」そのものの是非を問うのではなく、「影」を強調するための「光」なのである。
作品の内容としては、東北出身の出稼ぎ者でありホームレスになった男を通して、戦後日本の「声なき人々」(「声を消された人々」と言うべきか)の姿を描いている。一種のマイノリティの姿を描いており、またそのマイノリティ個人の記憶と歴史を重ねることで、「記憶」と「歴史」の「ゆらぎ」を暗示している、といった点では、世界的な現代文学のメインテーマや潮流に沿ったものであるとも言える。ちょうど、パトリック・モディアノの作品にも触れたばかりだ。
おそらく、そういう点と、アメリカ人から見た今の「日本らしさ」、驚異的な経済成長に隠された闇、圧倒的な津波に象徴される東北大震災のダメージ、そして「天皇」という不思議なブラックボックス、、、などが、今回の全米図書賞に選ばれた理由なのではないかと思う。
と、まあ、ここまでは「いかにも」な批評なわけだが、実際、読んでみて、著者の着眼点にも行動力にも、色々と考えさせられた。現代日本の「格差」を描く作品は実に多いが、その対照として「天皇」を描き出すところ、日本国内ではデリケートな問題だけに、その勇気と着眼力に感嘆してしまう。誰とは名指しできない既得権益層を漠然と思い描くのでも、安易なエリート的モデルを創り出すわけでもなく、敢えてそこに「天皇」を持ってきたことで、「戦後」だけでなく「戦前」からの因縁を暗示するような、奥深さと複雑さが加わった。
そして、何度も上野公園のホームレスの「犬狩り」に立ち合い、彼らとの直接対話での取材を行なったり、東北大震災後、実際に縁もゆかりもない福島県南相馬市に引っ越して様々な活動を行ったりする真摯な行動力は、著者が自分自身「在日韓国人」と言う一種のこの国の「マイノリティ」を強く意識しているからなのかな、と感じる。
パトリック・モディアノの『家族手帳』を読んで感じた通り、文学というものの力はとても限られている。解決策の提示はおろか、問題点や責任の所在すら明示できないことが多い。それでも、世界の真反対に位置する私がモディアノの世界に一瞬連れ去られたように、そこには、ストーリーやナラティブでしか達成できない力というものが存在する。それは何百冊の歴史や社会の解説書を読んでも得られない力だ。この作品が、日本ではなく、アメリカという異国で高く評価された、ということは、多分、そういうことでもあるのだ。
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