書評 小説 『ラッフルズ・ホテル』 村上龍


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1989年村上龍の作品。最近、このあたりの作品をたまに読み返している。ストーリーは読んだ瞬間から忘れてしまいそうなくらいどうでもいい(失礼!)。読み返してみてまず感じるのは、ある種の「こっぱずかしさ」である。作品全体に独りよがり的な自己陶酔感とバブル的スノビズムが何とも言えなく時代を感じてしまう。

私は中学・高校時代、村上龍や山田詠美や(今や完全に消え去った)森瑤子などの作品をかたっぱしから読みまくった。そして、最も敬愛する作家はフランソワズ・サガンだった。それ以来、色々な作品に出会って、私の乱読習慣はかなり色んな方面に渡るようになったけれども、それでもやっぱり私は相変わらずサガンが好きである。以前、サガンについてある読書ブログで語っていたところ、「サガンはスノビズムの作家なのだ」とおっしゃった方がいた。それで、なるほど、と思った。スノビズムは、貴族的趣味をひけらかす俗物根性、みたいな悪い意味でつかわれるのが一般的だが、そこには一種の美学と自己陶酔があると思う。そして、バブル時代の村上龍や山田詠美や森瑤子の作品にも、やっぱり日本バブル的スノビズムが満載なのだ。やたらリッチなシチュエーションや即物的・感覚的な嗜好とか・・・

この作品で言えば、表題の「ラッフルズホテル」の豪奢でエレガントなティフィン・ルームやライターズ・バー、ブーブ・クリコのイエロー・ラベルではないグラン・ダム、マレーシアの高地にあるフレーザーヒルという別荘地、その別荘の暖炉の傍で食べるスパゲッティ・ポマドーロ・ア・ラ・フィオレンチーナ、葉山の自宅で時折チェロをオールヌードで弾く美しい妻、カンボジアの戦場に咲き乱れる野生の蘭のような女優が囁くウィリアム・ブライクだかアナトール・フランスだかの詩句・・・たまらない、スノビッシュなモティーフとディティールの数々・・・そして、何よりもめくるめく自己陶酔。

「私達はこんなに物や金や感覚的快楽に満たされているのに、なぜ幸せじゃないの?」みたいな自己陶酔。最近になって、これらの作品を読み返すと、そういう単純な問いを発していられた幸せな時代を感じてしまう。今の私達は、「こんなに物や金や感覚的快楽に満たされているのに、なぜ幸せじゃないの?」なんて言わない。「物や金や感覚的快楽に満たされていたって幸せなわけないじゃない」そこから始まってしまうので、自己陶酔している暇もないのだ。せちがらい世の中になったものだ。なんだかんだ言ってもサガンが好きな私は、実はスノビズムを愛しているのである。だから、こんなつましい今の世の中で、たまに時代遅れのこういう本を読むのは、こっぱずかしいけれども密かな楽しみでもある。

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