ここのところ、海外文学作品の翻訳調の文体が続いたので、少し対照的なものが読みたくなった。
平凡社ライブラリーのこの文庫には、宇野千代の「人形師天狗屋久吉」「日露の戦聞書」「おはん」の3作品が収められている。全て、主人公の「語り」のスタイルをとった作品だ。
宇野千代は、数年前に実家の本棚にある古い『おはん』の文庫を何気なく読んでみて、「これはすごい」と思った。
再読した「おはん」がやはり一番素晴らしかったが、「人形師天狗屋久吉」も「日露の戦聞書」も、思わずひきつけられる語り口調が見事な作品だ。
「人形師天狗屋久吉」は、70年間浄瑠璃人形をつくり続けた実在の名人人形師が、自分の半生と人形づくりへの想いを語る、というもの。3人目の娘のことを「ああ、名前も忘れて了うた」とか、死んだ妻のことを「さあ、いつ時分に死んだのであったのやら」とか言う、のんびりとしたおじいさんの語り口調は、日本文学にありがちな、ストイックで頑固な職人的イメージを、ある種破壊するものだ。それでも、70年間一日も休まず人形をつくり続ける人形師の職人根性は凄まじい。その凄まじさをストレートには感じさせないところが、「語り」のミソのような気がする。
日本文学にありがちなイメージを壊す、という意味では、「日露の戦聞書」という作品も同じ。こちらはタイトル通り、日露戦争に軍医として従軍した舅への聞き語りを綴った作品。戦争ものにありがちな悲惨さや残酷さ、或いは政治的・歴史的省察などがこの作品には一切ない。極めて卑近で、生活感があって人間的な戦争の様子が、至極飄々としたある種ユーモラスな口調で語られている。兵士たちが、何を食べ、何を喜び、いかにわけがわからないままドタバタしながら従軍し、戦争が進んでいったか。そして、暗く重たい言い方はしていないのだけれど、その合間に確かに人は死んでいく。これも、ある意味戦争というもののありのままの姿だなあ、と、ちょっと目から鱗が落ちるような気持ちになる作品。
そして、「おはん」は語りの美しさと柔らかさが秀逸で、結末を知っていながらも語りに引き込まれて最後まで読んでしまった。前妻おはんと、その妻を捨てる原因となった元芸者のおかよとの間で揺れるどうしようもない男の話。単なるだらしない二股男の問わず語りなんだけれど、それが不思議に哀れで切なく、人間の情念の深さ、おろかさがしみじみと感じられて、胸が苦しくなる。
それにしても、初めて読んだ時にも、おはんというただただ哀れな女には、なぜか不憫な気持ちよりも、気味が悪いような印象をもったことを覚えているが、今回もやっぱりどこか不気味な女だな、と思った。自分を捨てた男に再びいそいそと抱かれに行き、元々はれっきとした妻であり実の子供までいながら愛人のような立場にじっと耐え、男のはかない約束を一途に信じてついてきた挙句、息子を死なせ、男にも騙されて黙って去って行く。
主人公の男も、おはんから男を奪ったおかよも、どうしようもなく業の深い人間なのだが、なぜだか私にはおはんが一番業深い女に感じられる。間接的とは言え、両親のごたごたのせいで小さな命を落とした息子についても、「亡うなりましたあの子供、死んで両親の切ない心を拭うてしもうてくれたのや思うてますのでござります」とさらっと言ってしまう怖さ。
最後に、全く恨み言を言わず、自分は身を隠して二度と男に会わない決心を告げるおはんの手紙に、男が一瞬「逆恨みに打って打って打ちすえてやったらば」というほど怒りを感じる気持ちが、なんとなくわかるのだ。おはんのその行為によって、男は自分一人が一生抜けられない、業深い世界に取り残されたような気がしたのではないか。おはんの柔らかい体と細い目となよなよとした態度に魅せられて、情欲の深い泥の中にもろとも身を沈めていた男であったのに・・・と、これはちょっと男を弁護しすぎだろうか。どうしようもない男のこころの弱さを、女の読者にまで体感させ納得させてしまう、これが「語り」の感情移入のすごさなのかもしれない。
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