話題の書なので、今更ながら読んでみたのだが、素直に良い本でした。
森下典子さんの、シンプルでストレートな文章がとてもとても良い。「茶道」の心得とか精神とか、そんな堅苦しいことではなく、著者の「お茶」の経験と関わりを語ったエッセイなのだが、実はかなり奥深いところにも触れている。
「わけなんか、どうでもいいから、とにかくこうするの。あなたたちは反発を感じるかもしれないけど、お茶って、そういうものなの。」
「それがお茶なの。理由なんていいのよ、今は」
「お茶はね、まず『形』なのよ。先に『形』を作っておいて、その入れ物に、後から『心』が入るものなの」
「そうやって、頭で覚えちゃダメなの。稽古は、一回でも多くすることなの。そのうち、手が勝手に動くようになるから」
「あなたは、すぐそうやって頭で考える。頭で考えないの。手が知ってるから、手に聞いてごらんなさい」
現代の教育が良いとすること、現代の情報化社会で上手く生き抜くために必要とされること、それらとは真逆を行くお茶の先生の言葉。時間と経験とだけが成し得ること、「省略」し「効率化」することが決してできないなにか。一口に言いあらわそうとすると、抽象的でつまらないけれど、著者は身近な体験とシンプルな言葉でそれを表現してくれる。
私たちは、ますますわからなくなるお点前を繰り返しながら、和菓子を食べ、道具に触り、花を眺め、掛け軸から吹いて来る風や水を感じた。今という季節を、視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚の五感ぜんぶで味わい、そして想像力で体験した。毎週、ただひたすら。やがて、何かが、変わり始めた・・・
大都会の喧騒の中、駆け込んだ甘味処の簡易「つくばい」の音で一気にリフレッシュする。お釜から柄杓を取り上げようとすると、庭の笹の葉が音がして、遠い夏の祭囃子を思い出す。今までは見過ごしていた茶花がいたるところに咲いていて、どこでも季節を感じられることに気づく。人生の一番長く辛い冬、「大寒」を超え、「立春」を迎え、それでも寒の揺り戻しを耐えながら、「春分」を迎えて、お茶をたてる。そういう体験に添えられるさりげない一文がとても素敵で、ものすごい要約力というか的確さに改めて驚かされる。
過去のたくさんの自分が、今の自分の中で一緒に生きている気がした。
私は「花」を、なんて小さい枠で見ていたのだろう。茶花のない季節などなかった。退屈な季節など、一つもなかった・・・・・。
私の心も、この季節と重なっていた。明るい方へ向かいながら、大きな「揺り戻し」が何度もやってきた。・・・「節分」「立春」「雨水」と指折り数えて自分自身を励まし、何度も冬への揺り戻しに試されながら、辛抱強く、人生のある季節を乗り越えようとしたことだろう。
お茶と関わることで、関わり続けることで、五感のすべてが繋がり、季節と自分が繋がり、そしてまた、それが自分の人生の時間とも繋がる。それは、一直線の繋がり方ではなくて、いろんなものがいろんな方向に伸びながら全て繋がっていく、美しい織物みたいな繋がり方だ。時間のかかる複雑で美しい綾なりを、言葉で表現するのはとても難しい。
私も、なにも言えなかったのだ・・・・・。言えばきっと、言葉の空振りになるのがわかる。思いや感情に、言葉が追いつかないのだ。
物書きのプロがこんなことを言うのは、とても勇気がいることだ。だからこそ、それを承知で敢えて書いたこの本の、文章のすみずみまでが美しいのだと思う。すっと心の中に届いてきて美しい。森下典子さんが長年ライター業をして培った確かな文章力と、愚直にコツコツと積み重ねて得たお茶の体験。
お茶を続けているうち、そんな瞬間が、定期預金の満期のように時々やってきた。何か特別なことをしたわけではない。どこにでもある二十代の人生を生き、平凡に三十代を生き、四十代を暮らしてきた。その間に、自分でも気づかないうちに、一滴一滴、コップに水がたまっていたのだ。コップがいっぱいになるまでは、なんの変化も起こらない。やがていっぱいになって、表面張力で盛り上がった水面に、ある日ある時、均衡をやぶる一滴が落ちる。そのとたん、一気に水がコップの縁を流れ落ちたのだ。
この本の存在自体が、森下典子さんが「お茶」を通して言いたかったことを体現していると思う。
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