書評 『江戸はネットワーク』 田中 優子 ①


『江戸はネットワーク 』をお得に読む

日本近世文化、特に江戸の文化を専門とする田中優子氏の著書。松岡正剛氏とも親しく、本書の解説も松岡正剛氏が書いているし、以前読んだ松岡正剛編集『クラブとサロン』でも「連の場 十八世紀、日本のサロン」の章を田中優子が執筆していた。タイトルに惹かれて読んでみたのだが、本書は江戸文化に関する小論文やコラムの幾つかをまとめたものなので、体系だった書物にはなっていない。全体感のある読み物としては、筑摩書房の『江戸の想像力』の方が読みやすいので、初めて読む方にはこちらがおすすめだ。

テーマがあっちこっち飛ぶので要約するのは無理だが、気になった点をまとめてみる。

まず、タイトル通りの「江戸ネットワーク」について。「連」の典型である江戸俳諧のネットワーク、そこから発展して、天明狂歌を流行らせた蔦屋重三郎、全国から薬品や珍品を収集した平賀源内などの名編集者・プロデューサーが活躍した。特に、吉原で生まれ育ち、「吉原細見」といういわゆるタウン誌の取次からネットワークを広げ、やがて版元を独占して、山東京伝や歌麿などの天才を囲い込み、カラーの絵入り狂歌絵本から黄表紙、浮世絵、洒落本、合巻と出版ジャンルを広げていった蔦屋重三郎の多才さには目を見張るものがある。

このようなネットワークを生み出し活性化する大元に、日本近世社会における「連なり」を重視する文化があった。

連の場のもう一つの機構は「連なり」である。サロンの形成のプロセスをみてゆくと、必ずしも、人びとがしょっちゅう集まってパーティを開いているわけではない。ましてや、サロンを構成していると思われる全員が集まる、という機会は全くないといっていい。にもかかわらず、そこには確かに連が形成されており、互いに影響を受け合い、連なりのなかで才能を発見し、発見され、それを磨き、文化が形となっていく。(略)連なりということは、時代の影響を受けながら変化する、サロン形成の方法である。しかし方法は同時に性格でもある。それは、サロンが生み出すもの(作品)の性格にまで反映してしまうサロンの構成論理なのである。日本的サロンでは、必ずしも人が一堂に「集まる」のではない。誰かが人を「集める」のでもない。人から人へ連なるのである。であるから、「連」というダイナミズムの言葉が、サロンをさす言葉としても適切なものになる。

この辺りは先述の『江戸の想像力』に詳しい。本書では、蔦屋重三郎や平賀源内のような半分ビジネス的な文化活動(これはこれで面白いのだが)だけでなく、例えば、「三味線音楽」といったものにまで、「連なりの文化」の特色を指摘している。

これはじつは音楽ジャンルだけの性格ではなく、日本の近世文化全般に見られる、歓迎すべき性格なのではないかと思っている。幾つか具体的個別に指摘できるが、まずその中で、私は「全体」とは何か、そして全体を構成する「一つの音」や「一つの言葉」とは何か、という疑問を抱き続けている。ひとことで言うと、日本文化の諸現象における全体とは、完結しない全体なのである。はじまりもない全体、まとまりのない全体、外に流れ出し、外と交わってしまう全体なのである。その全体を作っている要素もまた、どこからどこまでが一つの要素なのかを、簡単に特定することはできない。「一つの言葉」とは何か、「一つの音」とは何か、と言う疑いを生じさせてしまうような現象が見られるのだ。

著者は、この「連なり」という意味で、もう一つ面白い側面を繰り返し指摘している。それは、「言葉の連なり」がもつ「魔術的・呪術的力」ということである。句が連なっていくことでイメージや因果関係が増幅されていく連句のシステム、平賀源内の『根南志具佐』に書かれた江戸の喋り言葉や市場の賑わい、虚構の遊女世界だけで通用する《「廓言葉」というこの世に存在しない言葉》。近世江戸では、言葉にはまだ呪術的魔力が残っていた。

言葉の市場的列挙は日本だけの特徴ではない。人類はじまって以来の普遍的様式であり、人間が外界を認識する方法のひとつであり、はたまた呪術的言葉の様式であることは「賦」や「祝詞」が列挙で作られていることから明らかだ。言葉が現実となるはずの呪術的世界では、予祝としての言葉は到来すべき豊かさを表現していなければならない。言葉の列挙は原始彫刻における孕んだヴィーナスを同じ機能をもったはずである。ここで、言葉は「豊かさ」なのだ。

文学の言葉が呪術性を完全に失いはじめる境目に、江戸文学は位置した。それでも、狂歌や小唄や小咄がそうであったように、庶民の言葉はまだ予祝としての機能を兼ね備えた縁起ものであったし、俳諧の座は天神の掛軸を掛けた部屋で行われ、歌舞伎は毎年、世界定めという宗教的儀式によって開始されていた。遊郭ではたくさんの縁起をかついだ行為が経済行為に転換されながら行われていた。

こういう、一つの言葉や音が意味を持たない、従って全体というまとまりの概念もないような文化のあり方とか、言葉に宗教的、呪術的な意味合いが色濃く残っている文学とかいうものを、現代の我々がすぐにそのまま理解するのは極めて難しいのではないか。著者もまた、《このような音楽や文学や絵画や建築について語り、あるいは記述するには、いったいどんな方法が可能だろうか、いつも考えてしまう。》と言う。

このような性質を持ったものについて語るには、時間を取り込んだライブ・プロセスの記述しかないだろうと思う。時間と共に、私が何を体験しつつあるか、という記述の方法である。音楽も文学も鑑賞したり読んだりするものではなく、「体験」するものなのである。(略)それは同時に体験者自身の身体や、そこに刻み込まれた文化の記憶が作用しているだろう。時間と空間と身体と歴史(記憶)を全て含み込んだ、ライブ・プロセスの記述ー日本音楽は、(そして往々にして絵画や文学もまた)そのような欲望を抱かせてしまう性質を持っているのである。

「身体性」「体験」「ライブ・プロセス」などと言うと、今流行りの・・・という感じがしないでもないが、素人にとって江戸文化が近づきがたいのが、「連なり」や「呪術性」といったものとも関連があると思う。当時の人々がどんなところに楽しさと価値観を置いてこの文化が型作られたのか、ということにまで想像力が及ばないと、その文化の面白さは中々理解できない。

連句について、一つ一つの句や言葉を取り上げて、逐一その意味や関連性やイメージの広がりを説明していく、という方法では、連句の一番の肝である即興性や臨場感の面白さが伝わってこない。と言っても、現代ではそうやって説明するしかないのであるが、これは読者からしても甚だ興醒めするものである。本書でもそうだし、田辺聖子の『花はらはら 人ちりぢり 私の古典摘み草』でも、狂歌について解説しているが、小説家のなるべく全体のリズムや繋がっていくイメージを生かしたまま流麗に説明しようという努力にも関わらず、中々難しいものだな、と感じてしまった。

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