クリスティーナ女王


スウェーデン女王クリスティーナ。本名はクリスティーナ・フォン・シュヴェーデン(後に改宗してクリスティーナ・アレクサンドラ)。1626年ヴァーサ朝スウェーデン王のグスタフ・アドルフの子として生まれ、父王の死後、わずか6歳で即位。三十年戦争を終結させるなど善政を行うものの、若干27歳にして王位を従兄のカール・グスタフに譲り退位。その後、カトリックに改宗してローマに渡り、ローマで数々の権力者や知識人と交流を行い、「アルカディア」というアカデミーを設立するなどして、文化活動を精力的に行った。

クリスティーナ女王は、日本ではあまり知られていないが、西欧では後世になってからも様々な書籍や芸術作品で取り上げられている超有名人である。300年以上も前の北欧の一女王が、グレタ・ガルボ主演で「クリスチナ女王」というハリウッド映画の題材に取り上げられていることからも、その著名度がわかる。この映画自体は、ガルボを観るための映画でクリスティーナ女王の真実像に迫っているとはとても言えないが、少なくとも、そういうシンボリックな大衆イメージ化ができるほど、クリスティーナ女王の名前は一般的に流布していると言える。

クリスティーナ女王が西欧で有名なのには、主に4つの理由があると考えられる。

①博識さ

8歳ですでに8カ国後を話し、ラテン語で議論をしたというほどの知識人であった。その飽くなき知識欲から、フランスの哲学者デカルトをスウェーデン宮廷に招聘し、彼女の要請に応えたデカルトがこの北欧の地で客死したこともまた彼女を有名にした。

②スウェーデン王としての親政と早過ぎる退位

父王が30年戦争中に戦死した為、わずか6歳で即位したが、宰相オクセンシェルナの庇護の下、若くして善政を行い、宗教戦争から端を発し列強の思惑が絡んで極度に複雑化した30年戦争を粘り強く交渉、譲歩して集結させた。国民からの信任も厚かったと言われていたが、24歳で戴冠式を行ったたった4年後に、カール・グスタフを後継者に指名し自ら退位した。

③カトリックへの改宗

スウェーデン王家は代々プロテスタントであったにも関わらず、退位後、クリスティーナはカトリックに改宗した。宗教戦争の残り火がなおも燻り続ける17世紀のヨーロッパで、30年戦争でプロテスタント側の宗主を担ったスウェーデン女王が、突然ローマ教皇の前に跪きカトリックに改宗したことは、まさしく空前絶後の出来事であった。

④退位後の国際的な文化交流

退位後のクリスティーナは、イタリア・ローマに拠点を構え、様々な知識人や芸術家と交流し、国際的なサロンを展開した。彼女が設立した「アルカディア」は、20世紀にまでその名を残すアカデミーとなった。彼女の名前は国際的サロンの女主人また文化的パトロンしても有名である。

クリスティーナ女王について日本語で参照できる文献はごく限られているが、それらを元に、この4点から語ってみたい。

⑴博識さ

クリスティーナの博識さについてはその例の枚挙に暇がない。クリスティーナの父グスタフ・アドルフは自身も10ヶ国語を操るほどの学識高い王であったが、スウェーデン王家の唯一の嫡子である幼い王女の教育について、出征の際に宰相オクセンシェルナに指示を与え、賢相オクセンシェルナは王の死後ただちに詳細綿密な教育計画を戦場から本国に書き送ったという。学習を始める以前の幼年期に、すでにスウェーデン語だけでなくドイツ語を話すことができ、フランス語、スペイン語も「教師なし」に覚えた。10歳前にはラテン語で教師と話すことができるようになり、スウェーデン文書館にはクリスティナが10歳の時に書いたラテン語の作文が今も保存されている。

クリスティナの博識の高さについては後年、いろいろな人がその印象強さを記しており、マザラン図書館の司書として名を残したフランス人ガブリエル・ノーディは、「女王の精神はまったく類いのないものである。僕はけっしてお世辞を言うのではないが、彼女は すべてを見、すべてを読み、すべてを知っている」と、デカルトの論敵でもあったピエール・ガッザンディ宛ての書簡で述べている。ギーズ公は、女王なフランスのアカデミーやソルボンヌ以上に博識だと賞賛した。

クリスティーナの学問に対する情熱は若い頃から老いるまで決して衰えることなく、スウェーデン女王時代には北欧僻地の宮廷に、ドイツの歴史学者フランスハイム、ネーデルラントのギリシア学者フォシウス、ハインシウスなど、様々な学者を招聘した。中でもフランスの哲学者デカルトとの交流が最も有名で、彼女はデカルトを院長とする哲学・文学アカデミーの建設をすら計画したという。クリスティーナからの熱いプロポーズに応えてデカルトがストックホルムに着いたのは彼が54歳の時で、慣れない北国の冬、早朝5時に週3回女王に伺侯するというスケジュールを強いられた彼は、あっという間に風邪から肺炎を引き起こし、たった4ヶ月で客死した。クリスティーナは、デカルトを心から尊敬し丁重にもてなしているつもりだったが、幼い頃から1日12時間勉強し、睡眠不足にも寒さにも負けない強靭さを持っていた彼女には、南の地からやってきた老哲学者の健康を気遣うことはできなかったのであろう。デカルトの部屋には暖房が無かったとも言われていて、デカルトの客死はクリスティーナにも責任があるとされ、この点で不名誉にも名を馳せた。

デカルトとの思想的交流については、改宗についてのパートで触れるが、理性の究極的な信奉者であるこの偉大な哲学者ですら、クリスティーナの博識さには脱帽したと言われている。

デカルトはクリスティナが精通している主題の多さに恐れを抱いたほどであった。彼はクリスティナの博学が、哲学教育にとって有用というよりはむしろ危険なものとみえたことを隠していない。・・・このほとんど際限のない需要への意欲は、デカルトの求める自発性とは相容れなかったのである。(『デカルト、コルネーユ、スウェーデン女王クリスティナ』カッシーラーより)

⑵スウェーデン王としての親政と早過ぎる退位

クリスティーナが父王グスタフ・アドルフの死により女王として即位したのは、わずか6歳の時であった。当然ながら、幼い女王に代わって政治を主導したのは宰相のオクセンシェルナである。クリスティーナの善政が評価されるとすれば、まず何よりこのオクセンシェルナの賢政のおかげと言えるだろう。クリスティーナの統治の中で一番評価が高いのは、なんと言っても三十年戦争を終結させたことである。

三十年戦争は、ボヘミアにおけるプロテスタントの反乱をきっかけに、神聖ローマ帝国を舞台に展開された、ヨーロッパで最後にして最大の宗教戦争である。元々は宗教戦争であったが、カトリックを信仰するスペイン=ハプスブルク家の覇権に対抗し、デンマークついでスウェーデンが参戦、カトリックであるはずのフランスがプロテスタント側として参戦するなど、次第に大国の覇権争い的要素が強くなった。スウェーデンは、グスタフ・アドルフ王がプロテスタント側の盟主として参戦し、ブライテンフェルトやリュッツェンで皇帝軍を撃破し、当時ヨーロッパ最強の国民軍と讃えられた。しかし、長引く戦争により、スウェーデンの国庫は枯渇寸前、農民たちも疲弊しきっていた。外交政策的にも、プロテスタント側のデンマークや隣国ポーランドとの関係は不安定で、いつハプスブルク家側に寝返るかわからない、フランスもスペインとの植民地争いに注力し始め、北欧やドイツ領土の為にいつまで戦争に参加し続けることができるか、といった状態であり、クリスティーナが独り立ちする頃には、この戦争の早期の和平締結が急務となっていた。

講和の交渉には約4年もの時間がかかり、大国の利害も絡んで交渉は非常に難航したが、クリスティーナは粘り強く交渉に応じ、最終的にスウェーデンサイドが大幅な譲歩をしてウェストファリア条約を締結した。スウェーデン国内の主戦派は、「臆病な講話」としてこの大幅な譲歩に反発したが、クリスティーナはそれらの意見を抑えて講話条約締結を断行した。調印の速報をもたらした使者に女王は法外な値の金の鎖を賜ったとされ、彼女がいかに講話条約の締結を待ち焦がれていたかが窺える。

国内の主戦派貴族を抑えて長い戦争を終結させたことから、「国民のための平和主義的善政」を行ったというイメージをもたれることも多いが、(先述のハリウッド映画『クリスチナ女王』はそのようなイメージで描かれている)実際には、クリスティーナは絶対王政に強い確信をもつ生まれながらの絶対君主であった。クリスティーナはその在位中から、スペインやフランスへの傾倒が指摘されていたが(これが国内の反発を呼んだ面もある)、彼女はこれらの国、特にフランスに、国王至上権と一なる教会であるカトリシズムとの理想的な融合を見出していたのである。

クリスチナは最初から「女王」であることの自覚をもち、常にその自覚の下に自己を持し、持することに努めた。「生まれながらにして女王である」ことを「恩寵」と感じている。・・・神の恩寵とすることは、同時にこれを神に対する負い目として、君主の任務の重大さと困難さとの自覚をもっている。君主としての単に安易な権力意識ではない。「人は君主の義務を知れば知るほど、君主であることを望む者はないであろう」・・・これはクリスチナの『パンセ』に記されているものである(『スウェーデン女王クリスチナ』P55)

クリスティーナはまた、財政に疎いとも言われていた。彼女の統治下、スウェーデンは致命的な財政難に陥った。スウェーデンの財政難自体は、クリスティーナの統治だけがその責を負うものではないが、退位した後の国外での私生活でも、長らく財政難に苦しめられたところを見ると、理財や蓄財とは無縁であり、その点でも絶対君主らしいと言えるだろう。

特に、豪奢と物惜しみしないことは君主の美徳である。君主はあえて豊かにねぎらわねばならならぬ。高い身分にある者の最大の喜びは恩恵を施すことができることである。嫉妬と吝嗇は下品な情熱である。「それには神と共通のものが何もないから」ー。これは『パンセ』にクリスチナ自身記すところである。

生まれながらの女王としてあらゆる点でこの時代の女王らしい統治を行ったクリスティーナであったが、在位21年、1650年、ストックホルムで戴冠式を行ったわずか4年後に、28歳の若さで退位することになる。この戴冠式は、ウェストファリャ条約締結、三十年戦争の終結を待って行われたものだが、すでに、この時には、クリスティーナは退位を決意していたと言われる。つまり《退位のための戴冠》だったのである。

退位の理由については、当時もそして現在に至るまで、様々に取り沙汰されてきた。次に述べるように、退位したあと直ちにスウェーデン国外に退出し改宗への段取りを進めているところから、退位の一番の目的が改宗にあったことは間違いないであろう。

フランス大使シャニューとの書簡や、従兄のカール・グスタフの王位後継を元老院に提案した際に、クリスティーナ女王は、退位について何年間も熟慮を重ねてきたと言明している。日本語で読める唯一の体系的な伝記である『スウェーデン女王クリスチナ』の下村寅太郎氏も、

これら一切の経緯をふり返ってみると、すべて一貫した意図によって貫かれ、綿密に思惟され、計画され、多年にわたる辛抱強い忍耐をもって、正確に進められたことは明らかである。その綿密な政治的手腕は嘆賞に値する。決して一時的な軽率な行為ではない。

と述べている。

一方で、クリスティーナの性格については、真逆の評価をする者も多いことも事実である。

クーノ・フィッシャーは、デカルトとクリスティナとの関係を論じた論文で、女王の「一風変わった趣味、気紛れで移り気な性分、うわべだけの芝居がかった誇大妄想癖」を指摘し、彼女は軽率かつ無分別に、その高貴な運命を犠牲にしたと述べた。

クリスティナの生涯に関する新資料を発見し、アゾリーノ枢機卿に宛てた書簡と「随想録」とを編集したピルトでさえ、彼女を「神経症にかかったエゴイスト」と呼んでいる。女王の極端な性格は、生来の神経症が誤った教育によってさらに増幅されたためだろうと説明している。

(『デカルト、コルネーユ、スウェーデン女王クリスティナ』エルンスト・カッシーラーより)

女王が改宗や退位について熟慮し、その計画を綿密に立てて用意周到に準備し実行に移したことは間違いないと思う。しかし、退位後、フランスの宰相マザランの口車に乗ってナポリ王位の獲得を狙って遠征を行ったり、後継者のカール10世の死後にスウェーデン王への復位を画策して失敗に終わったことなどを見ると、事実はどうも、この相反する主張の中間あたりにあるのではないかと思う。

⑶カトリックへの改宗について

クリスティーナの改宗理由については、後世になってからも様々な説がある。また、デカルトが敬虔なカトリック教徒であったために、クリスティーナ女王の改宗と彼との関連性についても注目されている。ある者は直接的な関与を主張し、ある者は飽くまで限定的、間接的だったとし、はっきりとした歴史的証拠を欠いたまま結論は出ていない。エルンスト・カッシーラーは『デカルト、コルネーユ、スウェーデン女王クリスティナ』において、17世紀の精神史的観点からこの問題を考察し、クリスティーナはデカルトの論理的演繹によって唯一無二の神の啓示というカトリック信仰に到達したのであり、その関与は飽くまで間接的なものである、と主張した。前出の下村寅太郎氏も、このカッシーラーの説に添い、

クリスチナはデカルトが理論的なものにおいて論証したものを、そして理論的に制限したものを実践的なものに適用した。(『スウェーデン女王クリスチナ』下村寅太郎)

と述べている。

退位したクリスティナはまるで逃亡者のように直ちにスウェーデンを脱出し、デンマルクからアントワープに移り、その後ブリュッセルでローマ・カトリック教会に対するトリエント告白をした。そしてブリュッセルに一年ほど滞在した後に、チロルのインスブルックで公式の改宗式を行う。改宗式では祝砲が轟き、その後祝宴と音楽劇の上演が続いた。そこから、ヴェロナとマントヴァに向かい、フェラーラ、ボロニア、リミニを経てローマに到着。いたるところで盛んな歓迎を受け、花火が打上げられ、女王のために舞踏会、トーナメント、音楽会、演劇が催された。

宗教戦争の爪痕が未だ生々しく残る17世紀において、クリスティーナ女王の改宗は、ローマ・カトリック陣営にとってその威信を誇示するために必要な大スペクタクルであった。法皇アレクサンドル7世は、女性厳禁であったヴァチカン宮殿内を女王の宿泊所として提供する、という異例の歓待ぶり。公式のローマ入城の際には、衣装に贅を尽くしたローマの上流貴婦人たちが居並ぶ中、サン・ピエトロ大聖堂の床や壁は貴族から寄進された豪華絢爛な絨緞やゴブラン織で飾られた。ローマ中の期待を一身に集めたクリスティーナ女王は、女王の威厳を保ってそれに応えた。

宮下規久朗『聖と俗 分断と架橋の美術史』によれば、《バロック様式はなによりもローマ教皇たちの下で生み出され》た宗教的プロパガンダだった。この絶対王政を信奉する元スウェーデン女王が、退位してから後、ローマ・カトリックの威信を示す大スペクタクルの主役として祭り上げられた顛末は、まさに彼女の異名「バロックの女王」にふさわしい様相を呈している。

ローマ入城後は、パラッツォ・ファルネーゼが女王の住居として提供され、バルベリーニ家はこのお祭り騒ぎに乗じて6000以上の座席のあるオペラ劇場を建てた。前出の『聖と俗』 「王権のイリュージョン バロック的装飾と宮殿」の章によれば、《パラッツオは中でももっとも重要な装置であり、君主の一族の住居としてその権勢をアピールすると同時に、政治や知的文化を牽引する「宮廷」の中心であらねばならなかった》のであり、サルヴァーティに装飾させた「ファルネーゼ栄華の間」や、アンニバーレ・カラッチの描いた天井画「神々の愛」などで有名なパラッツオ・ファルネーゼはその代表格であった。ウルバヌス8世治下、その姻戚関係で最高の栄華を誇ったバルベリーニ家のパラッツォの壁画装飾は、バロックの申し子ベルニーニの構想によるものとされるが、ベルニーニはまた、クリスティーナが「17世紀のミケランジェロ」として最も愛した芸術家だった。

クリスティーナの改宗がいかに大事件であったかは、ローマ・カトリック教会の権威の最大の象徴であるローマのサン・ピエトロ大聖堂に、例外的に世俗の人であるクリスティーナの記念墓碑が祀られていることからも十分に納得できるであろう。

⑷退位後の国際的な文化交流

退位後のクリスティーナは、一時フランス宮廷にも出入りするが、宰相マザランに乗せられたナポリ王位継承の計画が頓挫すると、やがてローマに戻り、パラッツォ・リアリオに居を構えた。パラッツォ・リアリオは、15世紀にリアリオ伯が建てたブラマンテ設計によるバロック様式の美しい宮殿で、後にコルシーニ家によって買い取られたため、現在ではコルシーニ宮殿(palazzo Corsini)という名で知られている。カラヴァッジョの『洗礼者ヨハネ』、ファン・アイクの『エジプトでの休息』、グイド・レーニの『サロメ』などの名作を展示する国立コルシーニ宮美術館(Galleria Corsini)として一般開放されており、クリスティーナが亡くなったとされる部屋には、ルーベンスの『聖セバスティアヌス』が展示されている。

63年1月、善美を尽したパラッツォーリアリオに移った。地階は、浴室にいたるまで、むす数の立像、胸像で飾られ、画廊は元ルドルフ2世の募集品(これは1648年スウェーデン軍のプラーハでの戦利品である)を主体とし、ラファエロ、ティアチン、コレジオ、ベルネーゼ、ルーベンスらの巨匠の作品を含む。ゴブラン織は300点にのぼり(この中にはワサ王エリク14世の所有であったものが含まれている)、豊富なメダルやコインの募集、3つの大広間の図書室、公式の謁見室のほかに、二階にはいま一つ玉座の間と四室よりなる女王のアパルトマンがあり、多くの噴水や芝生のある苑庭、広い厩には29の馬車、16頭の乗馬、8頭の騾馬。・・・財政の整理から蔵書と美術品は再び増加し、「蒸留所 Distilleria」と名づけられた実験室があり、この時代の流行に従って錬金術や占星術に強い関心をもった。(『スウェーデン女王クリスチナ』より)

この美しいパラッツォ・リアリオで、クリスティーナは従来の学識の高さを生かし、精力的に文化交流活動を行う。それは、雅で享楽的な貴族的サロンというよりもむしろ、学術的なアカデミーに近いものだった。

一種のアカデミーを設立、援助した。これは「アルカディア」という名前で、彼女の死後も長く続いた。好きな学問は天文学と錬金術だった。彼女は名だたる学者たちと何時間もそれについて議論した。また音楽、とくにジェズアルド・ディ・ヴェノーサと、イノセント11世が禁じて豊富なローマの芝居の上演が、この王立機関の関心と支援をかきたてた。この機関はしだいに学者クラブと文学的哲学的サロンの中間位置を占めるようになった。ローマの知識人は、今やクリスティーナのリアリオ宮殿に草木のごとく靡いた。選りすぐった絵画や写本の大コレクション社交の夕べの楽しみを高めた。(『ヨーロッパのサロン 消滅した女性文化の頂点』ヴェレーナ・フォン・デア・ハイデン=リンシュより)

「アルカディア」では、スカルラッティやコレリらの作品が上演され、また、アレッサンドロ=グイディやベネデット・マンチニを範とするイタリア詩の研究がなされた。現代ではローマのBiblioteca Angelica(アンジェリカ図書館)居を移し、The Accademia degi Arcadiという文学的アカデミーとしてその名を残している。

このように、エレガントなサロン女主人というよりは、アカデミーの主催者である君主という方がふさわしいクリスティーナであるが、フランスの宮廷では彼女の風変わりないでたちや豪放磊落な振る舞いはあまり受け入れられなかったようである。アンヌ王妃マダム・ド・モットヴィルは《だらしのないジプシーのように見えた》と初印象を記している。

しかし、高級娼婦から時のサロン主催者に出世した才女ニノンとは気が合ったらしい。ニノンのサロンを訪問した後、帰り道でルイ14世に会い、ベネディクト派修道院に軟禁状態であったニノンの釈放をたのみ、「陛下も会ってごらんになると面白いですよ」と言ったという。(川田靖子 『十七世紀フランスのサロン』 より)

生まれながらの高貴な女王であるクリスティーナが、いくら当時話題の人とは言え、元娼婦との付き合いを好んでしていたのは驚きである。クリスティーナが現世の儀礼や評判にこだわらず、真の知性と自由を求めて憚らなかった姿勢が、このエピソードからも窺えるだろう。

【参考】

『デカルト、コルネーユ、スウェーデン女王クリスティナ 十七世紀の英雄的精神と至高善の探求』 エルンスト・カッシーラー(工作舎)

⑵『スウェーデン女王クリスチナ バロック精神史の一肖像』 下村寅太郎 (中公文庫)

『ヨーロッパのサロン 消滅した女性文化の頂点』 ヴェレーナ・フォン・デア・ハイデン=リンシュ

『十七世紀フランスのサロン サロン文化を彩る七人の女主人公たち』 川田靖子(大修館書店)

『聖と俗ー分断と架橋の美術史』 宮下喜久朗 (岩波書店)

⑹Wikipedia [Christina, Queen of Sweden] →こちら

(7)Wikipedia [Accademia degli Arcadi] → こちら

(8)Wikipedia [Palazzo Corsini,Rome] → こちら

(9)サイト 『宮城徳也研究室 』フィレンツェだより番外編 →こちら

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