『恋愛と贅沢と資本主義」』 ヴェルナー・ゾンバルト


訳者もまえがきで言っているように、題名がまるで《一見落語の三題ばなしのようなこじつけのように感じられ》、最近流行りの資本主義批判の本かと思ってしまうが、実際には、90年近く前、マックス・ヴェーバーと並び称されたドイツの経済史大家ゾンバルトの代表作であり、いわば、経済史の古典的作品である。

 ゾンバルトの主義主張は、まさにタイトルどおり。「恋愛と贅沢」が、「資本主義」の産みの親であり、原動力になった、というもの。特に面白いのは、愛人や娼婦といった《非合法な恋愛》関係にある女性たちが、近代資本主義発展のイニシアチブを握っていた、と主張する点である。そして、それにより、贅沢=奢侈が、屋内的、即物的になっていく傾向、感性化、繊細化、圧縮化していく傾向がある、と分析している。例えば、ロココ時代の、白絹のカーテンや手縫いのレースのテーブルクロス、絹地の椅子やべベッドなど、繊細で贅沢な屋内調度品のように。こういった商品が世に出回る為に、いかに資本の蓄積とレバレッジが必要だったか、多くの歴史的実証を挙げながら論じている。

 「贅沢が資本主義を産んだ」という主張は、現在ではむしろ一般的な「禁欲的プロテスタンティズムが資本主義を産んだ」というマックス・ヴェーバーの主張と真っ向から対立するように思われる。事実、ヴェーバーの代表作『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』において彼は、「金銭欲というのは古代から存在しているもので、その強弱が資本主義の歴史的必須条件ではない為、ゾンバルトの主張は間違っている」といった主旨の主張を述べています。

 私も、ゾンバルトの文章は面白く、部分的に頷けるところは多いもの、彼の結論自体には若干無理があるかなーと感じた。ゾンバルトの主張では、原因と結果の関係がはっきりしない。つまり、恋愛と贅沢が資本主義を助長したのか、資本主義が恋愛と贅沢を助長したのかが、わからないのだ。原因と結果に逆流関係が存在するのではないか、ということが客観的に証明できていない、と言えるであろう。

 一方で、原因と結果の逆流関係があるからこそ、彼の記述の多くの部分が、資本主義の「原因」ではなく「本質」的なものを描き出しているとも言える。つまり、資本主義には、非合法な恋愛や度外れた贅沢といったものを助長させるような、内在的な資質があるのかもしれない、ということだ。

大都市と資本主義の発展について論じた章でゾンバルトは、18世紀末、革命前夜のパリの風物を書き記したメルシェの次のような言葉を引用している。
《金持のくだらぬ贅沢の中にだけ、生活のささえの保証を得ている貧乏人の群れに対し、どんな助力をしようというのだ。・・・
 この大都市には、一生涯ただ子供の玩具ばかりつくったり、漆をぬったり、鍍金をしたり、各種の装飾にだけたずさわっている人々がいる。労働者の軍団、何万という手がここで夜となく昼となく、砂糖菓子やデザートの食べ物をつくるためにきたえられている。本当は無為にすごしているくせに、自分では生活していると信じ、おそいかかる退屈しのぎのためにだけ一日二回も化粧するなまけ者全員の目覚めを、他の十五万人が櫛を手にしながら待機している。》
これを読んだ時、なぜだか私は居心地の悪いような、後ろめたいような、不思議な気持になった。この様子が、メルシェの生きていた18世紀の「パリの貴族-市民」という関係ではなく、現代の「先進国の住民-貧困国の住民」という関係を糾弾しているかのように思えたのである。「贅沢」ということの定義は、時代によって異なる。物質的な量や質のみが贅沢を意味するわけではない。

 先進国の若い女性たちが、シーズンごとに流行の服を買い換える為に、大量に安価で豊富な種類のTシャツや靴やバッグが生産される。先進国のマダムたちが、望むままにアフリカ産の砂糖とオーストラリア産の小麦をたっぷり使ったケーキを食べ、インドネシア産のコーヒーを飲み、過剰に摂取したカロリーを消費するためにスポーツジムに通って消費を助長する。沢山の種類の車、洋服、食べ物、便利な家電、溢れ過ぎてどうしていいかわからないほどの量の情報・・・世界の10%の人々にそれを準備するために、残りの90%が動き続ける世界。勿論、それが問題だから、直ちに平等で公平な、理想的な共産主義的社会をつくれば良いのだ、なんて主張するつもりはない。ただ、200年前、よちよち歩きの資本主義の頃から、こういう構図があったのだとすれば、それは資本主義に本質的に内在するものなのかもしれない。
 そういう意味で、主張の正しさや論理性という点を超えて、この本から学べることは多いのかもしれない。

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