書評・小説 『八月九日の暗号 幻花』 剣町 柳一郎


『満州国演義』シリーズをご紹介いただいたインスタグラムのフォロワーさんが、満州好きが高じて小説まで上梓されたとお聞きしたので、お手元に残った貴重な一冊をお売りいただいた。今年の夏は、満州国演義に始まり満州国演義に終わる、という感じで暮れていき、読破した後は軽い「満州国演義ロス」に陥っていた私には、喪失感を埋める嬉しい本だった。(マニア過ぎる夏)

物語は昭和十九年八月から始まる。主人公は、チチハル警務処の警尉補であり、関東軍特務として無線防諜の特別偵察班の一員を担っている長岡半次郎。終戦直前の満州での不穏な動き。チチハルでの八路軍との衝突、満州国皇帝溥儀の暗殺計画、ソ連軍侵攻の噂。そして終戦と同時に、ソ連軍と中国の国民党軍、八路軍に追われながらの主人公と仲間の朝倉警尉の逃避行が始まる。ストーリーは中々複雑で、溥儀の暗殺計画や満州国を巡る関東軍の謀略、暗号解読、共産党軍と国民党軍の争い、さらには関東軍で捕虜の人体実験と生化学兵器開発を行っていた七三一部隊の秘密など、様々な要素が絡んでくる。

ソ連軍の侵攻してきたチチハルから逃げ出した長岡がハルビン、北安、黒河、シベリア移送中の列車から飛び降り、黒龍江を渡って、大興安嶺山脈を越えて南下を続け、途中共産党軍に協力するなどして、なんとか錦州・葫蘆島から引き揚げ船に乗るまで。後半からは息もつかせぬ展開で目が離せない。特に、長岡が友人の朝倉とシベリア移送中の列車から飛び降り、厳寒の大興安嶺山脈を越えるところと、葫蘆島での引き揚げ船出航までのギリギリのやりとりが、念入りに調査されているのであろう、リアリティがあってとても面白かった。

敗戦後、状況が一変した満州は裏切りの連続だ。チチハル酒楼の料理人の謝貫輝は東北人民自治軍の一員であり、仕立屋の宗来儀は関東軍と八路軍の二重スパイ。朝倉が決死の覚悟でチチハルに迎い入れた馬賊の張英志も、東北民主連軍の手先であったことが判明する。そして、主人公の長岡が愛した女性皓月もまた、東北民主軍の密偵だった。満州にいる中国人達に、侵略した日本人への恨みがそれだけ根深く潜んでいた、ということである。

しかしまた、長岡と朝倉の絶望的な逃避行を支えてくれたのは、同じ現地の人たちの人情でもある。松花江に飛び込んだ長岡をジャンクで運んでくれ食べ物と小銭を恵んでくれた支那人の爺さん、村人に捕まった夜、「日本人に家政婦として雇われていたとき奥様からとても親切にしてくれたので」とこっそり縄を解いてくれた満人の娘。長岡が個人的に信義を尽くしていた陶九垓や王景遊も、重要な場面でそれぞれに恩を返してくれる。裏切りと人情と、どちらか一方だけではない、重層的な現地人との関わり合いが、物語のリアリティとドラマを生んでいると思う。

この作品のもう一つ面白いところは、満州の生き生きとした情景描写だ。楡と銀杏の街路樹が色づく新京・大同大街の整然とした大通り。異国情緒あふれる国際色豊かなハルビン・キタイスカヤ街の活気。仔羊肉の濃厚な料理の匂いが漂う猥雑なチチハル・南大街や、大興安嶺の白樺の林と満点の星空。そして、その大興安嶺を越えて遂に降り立った迎春花が咲き誇る満州の大地。

あとがきで作者は《書きながら満州の風を感じた》と記しているが、満州の地を踏んだこともない私でも、満州の情景が目に浮かんで、満州の風を感じられるような気がした。

『幻花』というタイトルが示す通り、満州国は大きな幻だった。そしてまた同時に、そこに生きる人々にとってあまりに苛烈な現実でもあった。あとがきで作者は 《満州国を追いかけるうちに、かの地が男たちの命を賭けた現実でもあり、幻でもあったことを知った 》と述べている。この夏に、『満州国演義』をはじめ、いくつか、満州絡みや太平洋戦争絡みの本を読んでみて、戦争での過酷な体験を、のちの人々がそろって「夢」のように感じていることがとても印象的だった。それは戦後の日本の世界や価値観や環境の劇的な変化のせいもあるだろう。夢や幻といった比喩自体はよくある月並みなものだとも言える。ただ、あまりに激烈で過酷な経験をした時、人はみな、夢や幻のようにそれを感じてしまうのかもしれない、と思った。虚構と区別がつかないくらいの過酷な現実は、全て夢や幻と同化してしまうのかもしれない、と。

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