革命後のフランスでは、文芸サロンの役割は、カフェやそこで発達したジャーナリズムに分散されていき、強烈な愛国者であるジュリエット・アダンのような政治色の濃いサロン、或いは画商アンブロワーズ・ヴォラールが印象派の画家たちを集めたような、パトロン・スポンサー的意味合いの強いサロンなどが登場してくる。また、作家たちが経済的に自立することにより、フロベールやゾラや、現在もフランス最高峰の文学賞として名前を残すエドモン・ド・ゴンクールなど、作家自身がサロンを開くことになってきたのも、資本主義の成熟してきた社会の風潮をよく表していると言えるだろう。パトロンやスポンサーという観点からサロンというものの変遷を考えてみるのも、非常に重要な視点だろうと個人的に考えている。
従来の貴族的文芸サロンの勢いがフランスで衰えていくのに対し、代わって出てくるのが、プロイセン帝国下のベルリンだ。特に、七年戦争の財政面を賄い、戦勝後の重商主義によって促進されたベルリンの経済力を背景に力を増大したユダヤの女性たちがパトロンとなり、新しいロマン主義の文化が花開いた。
このように見てくるなら、ロマン派の多くのサロンがユダヤ夫人によって主催されたことの理由もおのずから明らかになろう。第一に、啓蒙主義の人間解放理念は、ユダヤ人解放、婦人解放の旗印をも掲げることで、男性よりはむしろ女性の間に大きな反響を見出したという事情が指摘できる。ユダヤ婦人はゲットーからの解放を同時にすべての世界の出来事から遠ざけられていた存在からの解放と受け取った。
ところがもともとユダヤ的伝統と縁のうすかったユダヤ人女性たちは、ユダヤ人の男たちほどには内的葛藤なくして精神的ゲットーから滑り出ることができ、伝統の地盤喪失の上にむしろロマンティックな理想像と自由の理念とを有利に築きあげた。彼女らの代表的才女たちがドイツ・ロマン派の作家、思想家と緊密に結ばれ合ってベルリンの文学サロンを支配するにいたったのはこのような事情があったからである。当時のドイツでは貴族や諸侯の宮廷は硬化してなんの精神的関心ももたなくなっていたし、市民階級は上から与えられた権利に甘んじて依然として偏狭で偏見に満ちていた。そうしたなかにあって、ユダヤ婦人のサロンにはまったく未知の、なにもかもが新しい雰囲気が支配していた。
富裕な宝石商の娘として生まれたラーエル・レーヴィン、ベルリンの開業医マルクス・ヘルツ氏と結婚したヘンリエッテ・ヘルツら教養あるユダヤ人女性のサロンには、シュライヤーマッハ、フィヒテを中心に、シュレーゲル、詩人のハイネやド・ラ・モット・フーケ歴史家のラウマーにランケ、ヘーゲルなどが集った。
ここでも私たちは、プロイセンの中央・宮廷に対して二重の意味でアウトサイダーである者たちのサロン、を見ることができる。しかし、これらアウトサイダー達をパトロンとして花開いたロマン主義も、フランス軍のベルリン侵攻を境に、ニーチェの言う「かつて存在しない反文化的な病いと非理性であるナショナリズム」へと次第に変化していく。
ドイツ・ロマン派は反動化し、反ユダヤ主義に退化していった。「ユダヤ人憎悪はロマン派とともに、中世、カトリシズム、貴族を尊ぶ傾向と共に初めて始まっている」とハイネの言う通りであった。ナショナリズムは反ユダヤ主義と結びついた。
保守化し衰退していく中央ベルリンのサロンに対し、著書は、辺境の地バイエルンはミュンヘンのサロンについても触れているのが興味深い。
バイエルンの田舎者の巣のような、こうした非芸術的な中くらいの都市ミュンヘンであればこそ、かえって芸術家や文学者たちは安心してアウトサイダーとして彼らのコロニーを作ることができ、市の一画シュヴァービングを「ドイツのモンマルトル」呼ばわりしてボヘミアン生活の根城にし、徒党を組み、「ゼツェシオーン」と「青騎士」を、「ジンプリツィスムス」と「フォルーム」と「ディー・ユーゲント」を結成することができたのであろうとも言われる。
時代は中世から始まり、国もイタリア、フランス、ドイツ、オーストリアなど幅広く触れたのち、この本の締めくくりは、イギリスの18、19世紀のサロンについてである。男性中心のコーヒー・ハウスやクラブは発達したものの、女性サロン文化はついぞ根付かなかったと言われるイギリスの中で、「ヴォルテールとわたりあった女」、エリザベス・モンタギューのサロンについてのエピソードは中々に面白い。
華麗なサロン文化の終焉の象徴として、プルーストを紹介しているのは誰もが納得するところであろう。
二十世紀とは、芸術、文学も新時代を迎えるために「サロン」という密室との関係を打ち切り、広い世界と民衆のなかに歩み出さねばならなかった時代である。サロン崩壊が一つの時代の終りを意味していることをよく理解していただくためには、『失われた時を求めて』を精読してもらう方がよいのである。
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