書評・小説 『素数たちの孤独』 パオロ・ジョルダーノ


コロナウイルスによる死者が世界最大となったイタリアで、新進気鋭の作家パオロ・ジョルダーノが『コロナの時代の僕ら』を緊急刊行した。刊行に先立ち、日本でも4月10日から早川書房が期間限定でこのエッセイを全文公開したことで話題となった。4月23日現在は、著者あとがきの全文のみ読むことができる。(こちら

今回、このパオロ・ジョルダーノの代表作を読んだのは全くの偶然で、コロナ騒ぎとは全く関係ない。私が海外文学の作品を読む時に、参考にしている文学賞が幾つかあって、邦訳の少ないイタリア文学では、特に、イタリアの最高峰文学賞「ストレーガ賞」を参考にしている。

1947年から始まったこの文学賞の中で、私が実際に読んだ本だけを挙げてみても、チェーザレ・パヴェーゼの『美しい夏』、エルサ・モランテの『アルトゥーロの島』、ナタリア・ギンズブルクの『ある家族の会話』、ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』など、どれも、この1冊だけをおかずに何年もメシが食べられるのでは、というくらい、殊玉の名作揃いである。本書の『素数たちの孤独』は、2008年に若干26歳の新進気鋭の作家が受賞して話題となった。イタリア国内ではミリオンセラーとなり、2010年には映画化もされている。

スキー中の事故で障害脚に傷を負った少女アリーチェと、桁外れの数学の才能を持ちながら、やはり子供時代に心に傷を老い孤独な生活を送る少年マッティア。2人が心の傷と闘い大人になるまでを描いた、みずみずしい青春と恋愛の物語だ。青春と言っても爽やかなものではなくて、読者は読みながら彼らの体と心の痛みを忠実になぞるような経験をすることになる。同じように、青春の痛々しさを描いたイタリア文学の小説に、シルヴィア・アヴァッローネの『鋼の夏』という名作があって、若者達の境遇はだいぶ違うのだが(『鋼の夏』の方は、工業地帯で危険な肉体労働に従事する底辺の若者達が主人公だ)、青春の痛々しさとみずみずしさが鮮烈に味わえる感じは、少し似ているなあ、と思った。ちなみに、この『鋼の夏』も、2011年ストレーガ賞のファイナリストに選ばれていて、パオロ・ジョルダーノと同年代の若手作家シルヴィア・アヴァッローネが数数の賞を受賞したことでも話題となり、ベストセラーとなって映画化された。

私がイタリア文学の良さを実感できるようになったのは結構後になってからで、初めの頃はなんだかストーリーラインがはっきりしなくて読みにくい作品が多いなあ、と思っていた。ただ、読んでいくうちに、パヴェーゼやモランテやモラヴィアのような作品がもつ、なんとも言えない魅力、素朴な荒削りな感じ、生々しさと爽やかさが同居するような感じ、人情味はあるのにどこか空虚でカラッとしているような感じ、がクセになってくる。情景描写が美しいのも魅力の一つで、よく散文や詩の形態を「叙事」と「叙情」とに分けて語ったりするが、イタリア文学には「叙事」と「叙情」を両立させるようなところがあって、風景や事物の描写に不思議な情感が漂うのである。これは説明しづらいところなので、実際に読んでいただくほかないが。

しかし『素数たちの孤独』については、そういう伝統的なイタリア小説に比べると、もっとずっとストーリーの起承転結がはっきりしていて、現代的なテンポの良い作品に仕上がっている。登場人物も、メインキャラクターだけではなくて、サブのキャラクターが生きていて、こういうところは、現代のアメリカ文学的な要素も強いなあ、と感じた。映画化にはぴったりの作品だし、東京国際映画祭で上映されたという映画作品の方もいずれ観てみたいものである。

それにしても、この作品、明るい話ではないが、決してテーマが重た過ぎる重厚な作品、というのではない。そういう作品を、国内最高峰文学賞として、ナタリア・ギンズブルクやウンベルト・エーコに並ぶものとして選ぶ、というイタリアは、何という、すごく懐が深いなあ、と感心してしまう。文学というものの価値は、テーマの重たさや物語の壮大さで決まるものではない。ここでは、感性というものに最大の敬意が払われているのだ。ストレーガ賞の受賞作品リストには、そんなイタリア文学の気概を感じる。そして、完成の鋭敏さや美しさを根こそぎ無にしてしまうような、恐ろしい惨禍に見舞われた「ポスト・コロナ」のイタリアで、この感性豊かな若い作家がどんな文学を今後展開し復興していってくれるのか、それを心から期待している。

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