書評・小説 『ジャズ・カントリー』 ナット・ヘントフ


『書店主フィクリーの物語』を読み、初めてアメリカのYA文学というジャンルに興味をもち、その時に、インスタのフォロワーさんからご紹介いただいた本だが、とても面白かった。ジャズについては全く明るくない私なので、ご紹介がなかったら絶対に手にとることもなかった本だと思う。こういう出会いがあるから、SNSは楽しい。

主人公のトムは、ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジに住むエリート階層の白人高校生。黒人ジャズミュージシャン、モーゼ・ゴッドフリートに憧れてダウンタウンのクラブに通い詰めているうちに、彼らの仲間と知り合いになる。黒人と白人で分断されたアメリカの現実社会を叙々に知り、ジャズの世界で生きていくか、大学進学の道を選ぶか迷いながら、成長していく様子を描いた物語だ。若者向けに書かれた本だが、決して教条的ではない。トムは、ジャズ黒人達の世界に容易には受け入れられないし、人種差別主義の悪徳警官に、友人の黒人ジャズミュージシャンが酷い目に遭わされたり、憧れのゴッドフリートが白人青年達から暴力を振るわれるのを、目の当たりにする。ジャズ・カントリーが意味するのは、黒人のアメリカ、主人公の少年がジャズを通して初めて知る、もう一つのアメリカという国だ。

著者のあとがきによると

しかしながら、根底において、ジャズは、本質的に黒人が音楽をとおして自分の国とその国における自分自身をどう見るか、その見かたです。したがって、ジャズが白人大多数によって完全に虫はされないというとき、そのときには、ジャズは疑わしいものになります。学校に入るのを許されないほど“文明化”が足りないというう理由で、ジャズは疑わしいものなのです。そして、そのことは、ジャズがいくらか危険なものという意味になります。愛欲の点で危険であり、社会的に危険であり、黒人のものだという理由出ただもう危険なのです。

あとがきより

物語は、よくある青少年向け物語のように、勧善懲悪のスッキリとしたものではないのだが、そこのスッキリしない感じが、この本の魅力でもある。裕福な白人女性だが、完璧に黒人ジャズ社会に受け入れられている(と主人公には思える)不思議な中年女性ヴェロニカの最後のセリフ。

「この一年はあんたにとって一種の試練だったわね、ちがう?人種の境を通りぬけて、ちゃんとやってこうとして。ジャズで、ちゃんとやってこうとして。人間として、ちゃんとやってこうとして。あんたの頭をおかしくしちまえるような種類の試練だったわね。同時にあんたが判事で陪審員で検事で弁護士なんだものね。わたしたちみんなは、ただの証人よ。それでいて、その点ではわたしたちも、あんたなの。なぜかというと、あんたがわたしたちのことをこうだろうなと考えるとおりに、わたしたちは存在し反応してるんですもの。(略)

トム、あんたは、ただ存在するというんじゃなくて、ずいぶん一生懸命に努力してきたわね。それをあんたがなくしちまうとはわたしには思えない。10歳のころまでにもう中年になるひともいるし、終点、おしまいまでスウィングをやめないひともいるわ。わたしの考えでは、あんたはその後のほうの名誉ある仲間に入ってるようよ。それで、そのことは、あんたがあんたのトランペットをどう吹くかってことと、ほんとはそんなに関係しないわ。レコード1枚あんたが作らなくたって、わたしはあんたのことを買うわ」

アメリカという国が抱える問題と、少年が辿ってきた成長過程とを鮮やかに総括してみせる、このセリフの言い回しと場面設定、まさにアメリカ文学作品として完璧、という感じがするので、興味を持たれた方はぜひ一度読んでいただきたい。

著者のナット・ヘントフは、もともとジャズの評論家として名を挙げ、コラム記事から、人物評伝や社会問題の論評まで、様々な著作を残した。大のジャズ好きとして知られる村上春樹が、伝説的なジャズ・ピアニスト、セロニアス・モンクについての文章を編訳した『セロニアス・モンクのいた風景』には、ナット・ヘントフの『ザ・ジャズ・ライフ』から抜粋した文章が収められているという。私はジャズが苦手、と言うか、良さを知りたいのに分かりきれてないもどかしさが先立ってしまうのだが、この『ジャズ・カントリー』は、とても楽しく読めて、自然とジャズに興味が沸くというか、ジャズを聴いてみたい気持ちにさせられた。

わたしが『ジャズ・カントリー』を書くさいにきわめて意識的だったひとつの意図は、先生たちや図書館員たちの頭上をこえていって、この本を読む若者たちに自分自身でジャズのことやジャズを演奏するひとびとのことを、知りたくてたまらなくならせようとすることでした。

あとがきより

それにしても、『書店主フィクリーの物語』といい、この『ジャズ・カントリー』といい、アメリカのYA文学というのは、すごく質が高くてびっくりする。日本にも一応YAというジャンルは図書館での分類などで使われているようだが、日本だとどうしてもライトノベル的な軽いものが多く、大人が読んでこれは、というものは少ないのではないか。日本でYA向けのおすすめ作品などを検索してみても、例えば三浦しをんの『風が強く吹いている』とか、森絵都の『カラフル』とか、普段大人向けの作品を書いている作家が、たまたま青少年向けに一冊書いてみました、的な作品ばかりで、わざわざ「YA」というジャンルで括るような奥行きと広がりがある作品群ではない。この差は、なんなのだろうか。

『書店主フィクリーの物語』の記事でも書いたように、アメリカには、ものすごく質量共に日本とは比べ物にならないほどレベルの高い児童文学があり、きっとこれが関係しているのではないかと思う。バーネットにオルコットにウェブスター、クーリッジ、ワイルダー、マーク・トウェイン、C・S・ルイス。こういう児童文学の層の厚さがYA文学の層の厚さと比例しているのではないか。アメリカ児童文学については結構思い入れがあるので、また改めて書いてみたいと思う。

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