書評・小説 『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』 村上 春樹


『海辺のカフカ』の記事で書いたように、最近、また村上春樹の長編小説を読み直している。この作品を初めて読んだのは15年くらい前だと思うが、『ダンス・ダンス・ダンス』と並んで、長編小説の中では一番好きな作品だ。

この作品の面白さは、なんと言っても、物語をめぐる独特の世界観にある。『海辺のカフカ』の記事でも触れたが、村上春樹の作品には、死者や生者の深層心理などが交錯する不思議なホットスポットのような場所が出てくることが多いが、この作品はちょっと違う。そういう、ある意味スピリチュアルな世界が出てこない代わりに、深層心理や思考の仕組みがシステム化され、物語化された世界観がそこにある。主人公の僕の、深層心理というのか、思考とアイデンティティの核の核、みたいなものを具現化した「パラレル・ワールド」が、物語と一緒に進行する、という仕組みだ。

「パラレル・ワールド」的な物語の進め方も、村上春樹の作品にはよくあるが、それが、主人公の意識の核である、という設定がこの作品のユニークさだと思う。現実の物語がハードボイルドに進行する一方で、主人公の思念である「世界の終り」の物語は、まるで西欧の御伽話のように、幻想的にアナログに進行していくパラレルさも際立っている。

人間の思考や心理をシステム的に捉える、という世界観も、今でこそお馴染みだが、まだパソコンが限られた人の使用に留まっていた80年代には、かなり新鮮だったのではないかと思う。こういう世界観は、もっとずっと後になって、ハリウッドのアクション映画、キアヌ・リーブス主演『マトリックス』やレオナルド・ディカプリオ主演『インセプション』などの作品と共通するものがあるなあ、と感じた。特に、『インセプション』は、映画を観ながらこの作品を連想した、とブログなどで語っている方も多く、監督クリストファー・ノーランの別作品『メメント』も、村上春樹を連想させる、と語っている方がいたので、もしかしたら、何か関係があるかもしれない。(私は『メメント』は未見である。)『インセプション』の原作は無く、当時日本では筒井康隆の『パプリカ』のパクリだ、と騒がれたようだが、ノーラン監督はひょっとして日本文学好きなのだろうか。『パプリカ』は読んだのがさらに昔、25年くらい前、中学生の時なので、「すごい面白かった」という以外、何も覚えていないが・・・

それはともかく、この設定と世界観は、ちょっと他の村上春樹作品には無い独特のものがあり、今は似たような小説や映画は他にもたくさんありそうだが、時代を先取りする感じもあって、今読んでもやはり面白かった。で、オリジナリティの方の分析はこのくらいにして、「いつもの村上春樹」の方の分析に行ってみましょう(こっちの方が好き)。すなわち、音楽、文学、映画、グルメのディティールである。

音楽は、今回も、ジャズ、古いロック、クラシック、と三拍子揃って出てくる。MJQ、マイルス・デイビス、デュラン・デュラン、ボブ・デュラン、デューク・エリントンなどいつもの安定感あり。「今日のクラシック」ならぬ「本作のクラシック」的一曲は、バッハの「ブランデンブルク協奏曲」である。これは、色々な本で取り上げられている名曲。そう言えば、森瑤子の『情事』でも、このコンツェルトの2番が印象的に挿入されていた。クラシック通の中では定番過ぎる曲なので、敢えて指揮者「トレヴァー・ピノック」を指定しているところが村上春樹らしい。

文学の方は、やたらスタンダードだ。ツルゲーネフ、スタンダール、サマセット・モーム、ツルゲーネフ、フローベール、トマス・ハーディ、コンラッド。今回は「ハードボイルド」らしく、映画の方に多く言及しているので、文学の印象はちと薄いが、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』については、こんなセリフが印象的だった。

「『カラマーゾフの兄弟』を読んだことは?」と私は訊いた。

「あるわ。ずっと昔に一度だけだけど」

「もう一度読むといいよ。あの本にはいろんなことが書いてある。小説の終りの方でアリョーシャがコーリャ・クラソートキンという若い学生にこう言うんだ。ねえコーリャ、君は将来とても不幸な人間になるよ。しかしぜんたいとしては人生を祝福しなさい」

私は二本目のビールを飲み干し、少し迷ってから三本めを開けた。

「アリョーシャにはいろんなことがわかるんだ」と私は言った。「しかしそれを読んだ時僕はかなり疑問に思った。とても不幸な人生を総体として祝福することは可能だろうかってね」

「だから人生を限定するの?」

「かもしれない」

映画は古いものが色々出てくるが、特にジョン・フォード作品の言及が多い。『静かなる男』は有名だが、『アパッチ砦』や『黄色いリボン』や『幌馬車』や『リオ・グランデの砦』に出演するベン・ジョンソンという俳優を取り上げるマニアックさ、やはり村上春樹らしいと言うべきか。『ワーロック』のヘンリー・フォンダや、『キーラーゴ』のローレン・バコールなど名女優への言及もある。ハードボイルドマンらしい女の趣味である。

グルメについては、ハードボイルド・ワンダーランドなので、まず何よりも、酒、酒、酒、である。下戸の私でさえ、彼の小説で名前を覚えてしまったカティ・サークを筆頭に、ワイルド・ターキー、ジャック・ダニエルズ、フォア・ローゼス、シーヴァス・リーガルなどのウイスキーの瓶が、次々に床に叩きつけられ割られていくシーンは、まさに「ハードボイルド」冥利に尽きるというものだ。

主人公がありあわせのもので作る《簡単な》食事、が極度に美味しそうに描写されるのも、この作品が最初かもしれない。《梅干しをすりばちですりつぶして、それでサラダ・ドレッシングを作り、鰯と油揚げと山芋のフライをいくつか作り、セロリと牛肉の煮物を用意し》《時間があまったので》《缶ビールを飲みながら、みょうがのおひたしを作り、いんげんのごま和えを作った》・・・と、「どこが簡単やねん!」と世の主婦の顰蹙を買いそうなところもご愛嬌。実際に、村上春樹氏が料理上手であろうことは、『遠い太鼓』などのエッセイを読むと納得するので、仕方ない。

そして、最後はやっぱりサンドウィッチで締めましょう。村上春樹作品の中で、伝説的オーソドクスな一品、「ハムとキュウリとチーズとレタスのサンドウィッチ」である。

「どうです、なかなかうまいサンドウィッチでしょう?」

「そうですね。とてもおいしい」と私は誉めた。本当においしいのだ。私はソファーに対するのと同じようにサンドウィッチに対してもかなり評価の辛い方だと思うが、そのサンドウィッチは私の定めた基準線を軽くクリアしていた。パンは新鮮ではりがあり、よく切れる清潔な包丁でカットされていた。とかく見過ごされがちなことだけれど、良いサンドウィッチを作るためには良い包丁を用意することが絶対に不可欠なのだ。どれだけ立派な材料を揃えても包丁が悪ければおいしいサンドウィッチはできない。マスタードは上者だったし、レタスはしっかりとしていたし、マヨネーズも手づくりか手づくりに近いものだった。これほどよくできたサンドウィッチを食べたのはひさしぶりだった。

実は、オーソドックスなサンドウィッチ、さほど好きではない私なのだが、いやしかし、村上春樹を読めば、とりあえずサンドウィッチにもウイスキーにも、なんか一言なくてはいけないような気にさせられてしまうのだから、困ったものである。やれやれ。

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