書評・小説 『海辺のカフカ』 村上 春樹 ①


『海辺のカフカ』をお得に読む

『騎士団長殺し』の記事で随分辛口のコメントをしてしまった私だが、かつては村上春樹の長編小説が大好きだったのだ。『騎士団長殺し』でガッカリしてからというもの、返って、昔の村上春樹の長編小説を読み返したくなってきた。今読み返しても昔の作品は面白い、と感じるのかどうか、もしかして変わったのは私の方なのか、確かめてみたかったのもある。

私が一番好きなのは『ダンス・ダンス・ダンス』と『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』だ。この『海辺のカフカ』くらいから、あんまり印象に残らなくなってきた気がしたので、とりあえず、ここから遡ってみようかな、と読み始めた。

村上春樹の中では珍しく、15歳の少年が主人公の物語だ。「田村カフカ」くん(偽名)が、15歳の誕生日に家出をし、高松市の小さな私設図書館の片隅で暮らし始める。幼い頃に自分を置いて出て行ったまま顔も知らぬ母と、小さい頃の写真だけ残っている姉の存在がいつも気になっている。息子に殆ど関心を持たない高名な芸術家である父親は、彼に対して、「お前はいつかその手で父親を殺し、いつか母親と実の姉とまじわることになる」という不吉な予言をする。物語の中でも言及されているが、これは有名なギリシア悲劇『オイディプス王』とほぼ同じ予言である。果たして、彼は、父親の予言する運命を超克できるのか・・・

この主人公の物語と並行して、太平洋戦争時代に疎開先で超常現象にみまわれ、以来、記憶や識字能力を全く無くしてしまった「ナカタさん」という老人を核とするストーリーがパラレルに進行する。このナカタさんは、主人公の悲劇的運命に対して、一種の触媒的な役割を担っていて、最後の最後で主人公の物語と交錯するのだが、小説の大半は、2つのストーリーがパラレルに進行していく。これは『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』で最初に試みられているし、この作品以降では、『ねじまき鳥クロニクル』『1Q84』などの超長編小説でも使われる、村上春樹作品ではお馴染みの手法だ。

現実のものであれ超現実のものであれ(その区別はあまり必要ないように思う)、一種のパラレルワールドが存在して物語が進行する、という点の他にも、村上春樹の長編小説にはいろんな共通点がある。別に村上春樹文学の専門家ではないので、自分のメモ的に、気づいた点だけ簡単に挙げておこうと思う。

まず、絶対悪的なものが描かれていること。本作品では、それは主人公の父親であり、さらに表象的な「猫殺しのジョニー・ウォーカー」として現れる。絶対悪的なものが描かれるのは、『羊をめぐる冒険』や『ダンス・ダンス・ダンス』などの昔の作品からだ。絶対悪は見るからに禍々しいのではなく、スマートな男性、或いは、今回のジョニー・ウォーカーのように非現実的かつ妙にコミカルな形態をしている。絶対悪は、個人の抱える心理的な闇と、社会的な巨悪とがないまぜになっている。絶対悪を暗示するものとして、歴史的な巨悪が象徴的に登場することも多い。『騎士団長殺し』では結構具体的に南京大虐殺に触れているように、これは後期になればなるほど顕著になっているかもしれない。本作品では、主人公がアイヒマンのユダヤ人虐殺に関する本を読んでいる。

それから、主人公が、彼岸的世界と現実世界を結ぶある種のホットスポットを抜ける、というパターンも、よく出てくる。『海辺のカフカ』では、それは山奥の森の中のスポットだ。『騎士団長殺し』では穴の中だし、『羊をめぐる冒険』では北海道の僻地の山小屋、『ダンス・ダンス・ダンス』ではいるかホテルやハワイのチャイナタウンにある古ぼけたビルだったりする。彼岸的世界というのも、ただ単にあの世とか死者の世界、というのではなく、死者と主人公の深層心理的なものや不思議なメタファーやイメージとが交錯するような、言わば現実と完全なあの世との中間地点のような世界である。

そういう意味では、主人公が一時的に住んでいる「甲村図書館」も、ある種のホットスポットと言えるかもしれない。この図書館の存在はとても印象的なので、もしかして実在するのでは?と、読者は思ってしまいそうだ。村上春樹自身は、読者とのメールのやり取りで「実在しない」と答えたというが、ロケーションや建物の描写が具体的で素敵なので、ファンの間では、この図書館がモデルになったのでは、などと色々噂されている。「阪神スノビズム文学散歩」の記事で、村上春樹の地元である西宮の市立図書館を紹介しているが、実際にはこの図書館を含めて、作者が実在の図書館をデフォルメして創造した《僕の頭の中には実在》する図書館ということなのだろう。この図書館は、メタファーであると同時に、ソリッドでもある、という、両義性を持っている。この両義性が、『海辺のカフカ』では重要なのだ。

大事な機会や可能性や、取りかえしのつかない感情。それが生きることのひとつの意味だ。でも僕らの頭の中には、たぶん頭の中だと思うんだけど、そういうものを記憶としてとどめておくための小さな部屋がある。きっとこの図書館の書架みたいな部屋だろう。そして僕らは自分の心の正確なありかを知るために、その部屋のための検索カードをつくりつづけなくてはならない。掃除をしたり、空気を入れ換えたり、花の水を変えたりすることも必要だ。言い換えるなら、君は永遠に君自身の図書館の中で生きていくことになる。

「世界はメタファーだ、田村カフカくん」と大島さんは僕の耳もとで言う。「でもね、僕にとっても君にとっても、この図書館だけはなんのメタファーでもない。この図書館はどこまで行ってもーこの図書館だ。僕と君とのあいだで、それだけははっきりしておきたい。

あとは、基本的に主人公の男性が絶対悪と戦う、という基本線のストーリーの中で、若い女性がそれを助けたり、彼岸的世界との触媒のような役割を果たす、という点も重要だ。この作品では、もしかしたら主人公の姉かもしれない、さくらという女性がそれだ。それから、こういう女性とのセックスが時に交霊のような役割を果たす、というのもいくつかの作品に共通している。『海辺のカフカ』では、物語の終盤で、主人公は夢の中でさくらを犯し、「姉を犯す」という予言を実行した、と考える。想像で犯した罪と現実に犯した罪の間に、倫理的違いはあるのか、という著者の疑問がそこにある。この作品では、最後にそれは現実のものとは違う、と退けられるが、『1Q84』や『騎士団長殺し』で再びそのメタファーは深堀りされることになる。

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