松本清張の『熱い絹』の記事でも書いた通り、元来私は、推理小説というものを読まないのである。私自身が、物語に求めているのは別の世界に連れ去られるような疑似体験であって、知的遊戯ではないのかもしれない。でも、小説のプロットの立て方とかストーリーテリングの仕方とかで、勉強になる部分もあって、いくつか読んでいるうちに、少しずつ楽しめるようになってきた。で、無謀にも(?)、いきなりこんなマニアックな大作に挑んでしまった次第。
推理小説に疎い私は、作者の名前も作品の名前も聞いたことなかったのだが、三浦しをんさんの本に関わるエッセイを集めた『三四郎はそれから門を出た』に本書が紹介されていのだ。しかも、別々の雑誌で2回もこの本を取り上げており、連載企画の第一回目の記念として《この作品は探偵小説の金字塔と言われ、熱狂的な読者が多くいる大傑作》 と紹介し、《なにを隠そう、私の長年の野望は、男の子を三人生んで、氷沼家男子と同じ名前を付けることだったりする》などと書いているほどの入れ込みっぷり。しかも、物語の舞台となるのは東京山手の目白界隈で、実は私の学生時代の下宿先の最寄駅は目白なのである。俄然、興味が湧いた。
しかし、読み始めてみて正直、呆気に取られた。松本清張の『熱い絹』の記事で、あまりに大風呂敷を広げ過ぎてどうやって回収するのか…などと要らぬ心配をした私だが、この作品に比べたら『熱い絹』なんてお口ふきナプキンくらいのものである。とにかく伏線張りまくり、風呂敷どころかテーブルクロスかカーペットか、どこまで広げるつもりやねん!?と、関西人でもないのにエセ関西弁で突っ込みたくなるほどなのである。
先祖はクラーク博士と共に北海道の開拓事業に力を注いだ政治家であった氷沼家。そのいわくありげな目白のお屋敷で、呪われた一族に降りかかる連続密室殺人の謎を解く、というのがメインのストーリー。
しかし、そのメインストーリーに、多種多様なエピソードが複雑怪奇に絡み合う。北海道開拓事業にまつわるアイヌとの確執とアイヌの伝説、植物研究から導かれる薔薇の品種や遺伝的色則、花の色則は転じて東京各地に今も残される五色不動の伝説と繋がり、それら全部をまとめて解く鍵として、純粋数学を駆使した複雑な数式と、歌舞伎仕立てにされた虚構の推理小説が示される。
これに加えて、登場人物たちのマニアぶりに合わせて、様々な推理、怪奇小説へのオマージュが散りばめられる。ポーの『大鴉』や『赤き死の仮面』はメインの推理と深い関わりがあるが、その他にも、フィロ・ヴァンスの『キャナリー殺人事件』に『アクロイド殺し』、ノックスの『探偵小説十戒』、ガストン・ルルーの作品などが小道具的に挟み込まれる。さらに、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』やスウィフトの『ガリバー旅行記』、ポール・ヴァレリーの詩、戯曲『サロメ』、旧約聖書における「ケインとアベル」の伝説などなど。
ざっと挙げただけでもこの通りである。作者はこの作品の構想を実現するのに10年の月日を要したと言うことだが、確かに殆ど病的過大な構成力だ。これだけ広げまくった伏線をものの見事に全部回収して完璧なストーリーに仕立て上げる、のかと思いきや、ほとんどが登場人物たちの誇大妄想やトンデモ推理だったりして、肩透かしが多く、読者はとにかく眩惑されて振り回されっぱなしである。
中井英夫ほどの名手ならば、洞爺丸事件に取材しつつ、四つの密室殺人を含む「氷沼家殺人事件」を本格推理小説として書きあげることも、ほぼ十年という制作年月を考え合わさればさして難事ではなかったはずである。殺人の動機もまた、愛好家たちを納得させ、いずれは推理小説の古典と仰がれるべきリアリティに包まれて提出されたかもしれないのだ。謎解きゲームとしての『虚無への供物』は、そのとき完璧な、純粋なものとなったであろう。だが、千二百枚の長篇に十年近い歳月を費やした作者は、ゲームとしての完璧性、純粋性よりも、脱ゲームの混濁と不完全を選んだ。つまり彼はアンチ・ミステリーを書いたのである。
巻末の出口氏の解説である。どうやら私は、ミステリーの導入本として最も不適切な本を選んでしまったらしい。。。でもまあ、知的ゲームを突き詰めるとこうなってしまうのか、という一つの終末点的なものを意識してから、ミステリーの名作を読み進めてみるのも悪くないかもしれない。次は江戸川乱歩やアガサ・クリスティあたりから始めた方が無難なようである。
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