書評・小説 『革命前夜』 須賀しのぶ


SNSで投稿が多かったので読んでみた。冷戦下の東ドイツに音楽留学した若き日本人ピアニストを主人公に、音楽家としての成長や葛藤と、ベルリンの壁崩壊直前のドイツの政治や社会の様子を描いた歴史エンターテイメント。

まず何より、クラシック音楽についての情報量がすごい。私はクラシック音楽には明るくないのだが、物語の中で多くの具体的な曲名が挙げられていて、すぐにその音楽が頭に浮かぶ方には、印象的な効果音になることだろう。主人公が最敬愛するバッハだけでも、引用されている曲名を挙げると以下の通り。

  • 『平均律クラヴィーア曲集』第一巻
  • 四番 嬰ハ短調 BWV849
  • 《神の時こそ、いと良き時》 BWV106 ⒈ソナティーナ
  • 《深き淵より、我、汝に呼ばわる》 BWV686
  • 《ゴルトベルク変奏曲》 BWV 988
  • 『イギリス組曲』第二番 イ短調 BWV 807

これに、カンタータとマタイ受難曲にも詳しい解説がついている。特に、今日ではメジャーな「マタイ受難曲」は、バッハの死後忘れられていたが、彼の死から七十九年後に、若きメンデルスゾーンがベルリン・ジングアカデミーで演奏し脚光を浴びることになった、といったエピソードは、クラシック音痴の私には「へえへえへえ」という感じだ。

バッハの他には、フランクのソナタ、モーツァルトのヴァイオリン協奏曲第五番・第一楽章アレグロ・アペルト、ブラームスのヴァイオリン・ソナタ、ベートーベンの三十番、プロコフィエフのソナタ七番、リストの交響詩『前奏曲』、ラインベルガーのオルガンソナタ十一番第二楽章・カンティレーナ、ショパンのスケルツォ3番、ブロッホ『バール・シェム』より第二番「ニーゲン」、メンデルスゾーンのオルガンソナタ第四番、ハインツのヴァイオリン・ソナタ、フォーレの『エレジー』、オペラ『フィデリオ』などなど。

クラシックファンでなくても聴いたことがある定番のものから、マニアックなものまで、著者のクラシック音楽についての造詣の深さには恐れ入るばかりだ。知識的なものだけではなくて、文章では難しいとされている音楽についての描写がとても具体的で、でも音楽の素人にも読めるような平易な言葉で、巧みに表現されているところもすごい。

それから、タイトル通り、「革命前夜」の東ドイツの様子が詳しく描かれているのもとても興味深い。冷戦下の東欧の重苦しい社会を描いた作品は数多くあるが、東ドイツに限定され、しかも鉄壁と思われた共産主義に綻びが見え始めている時期、というのが珍しいのかもしれない。他の共産圏の国のように、外部と全く遮断されているわけではなくて、家族が西ドイツにいるとか、西ドイツ人と恋仲になるとか、結構西側との交流が頻繁にある。密かに電波も受信できるから、西側の情報を得ている人も多い。当たり前だが、一つの国(ベルリンに至っては一つの都市)に、ある日突然誰かが決めたボーダーラインが勝手に引かれただけなのだから、そんなに全てがプッツリと途切れてしまうわけがないのだ。

主人公と知り合いになる少女ニナの祖母は、西ドイツ出身で連れ合いが亡くなった後は故郷のドイツに戻っている。ニナのユーゲントヴァイエ(カトリック教徒が行う14歳の堅信式)には、西ドイツから国境を越えてやって来るが、ある意味で家族を捨てて西側に帰っていった彼女に対して、実の息子や娘すら微妙な態度をとる。東側に残された者には、西側に対して憧れと批判の両方を持っているのだ。なるほどなあ、と思う。この辺り、レベルは随分違うけれど、コロナ禍の日本で、急に都や県を跨いだ移動がどうの、彼方から来た人はどうの、と勝手なボーダーラインを持ち出して右往左往していることの不自然さや浅はかさが、ことのほか身に染みる昨今である。

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