書評・小説 『リスボンへの夜行列車』 パスカル・メルシェ


スイスの作家、パスカル・メルシェのベストセラー小説。表紙帯に「哲学小説」と銘打たれていたので、哲学アレルギーの私は少々身構えてしまったが、難しい表現や思想を論じたところはほとんど無く、ストーリー展開に沿ってすらすら読めた。

物語は冒頭から少し不思議だ。主人公はベルンのギムナジウムで古典文献学を教える定年間近の教師グレゴリウス。ある日、彼が職場の学校へと向かう途中、橋の上から飛び降りようとする女を見つける。助けようとするグレゴリウスの額に電話番号を書き付け、「母国語はなんですか?」という唯一の問いに「ポルトゥゲーシュ(ポルトガル語)」とだけ答えて女は姿を消す。その旋律と《雪花石膏のように白い顔》が頭から離れず、彼は突然授業を抜け出して飛び込んだ書店で、アマデウ・イナシオ・デ・アルメイダ・プラドというポルトガル人の書いた本と出会う。不思議な女との邂逅と、プラドが書いた本に惹かれて、突然全てを投げ打って未知の国ポルトガルのリスボンへ旅立つグレゴリウス。そこで、彼は、著者のプラドの人生の跡を探しながら、自分自身の人生を辿り見直すことになる、、というストーリー。

このプラドという人物の軌跡を辿ることで、哲学的な考察はもちろん、ポルトガルの現代史や階級社会の様子なども盛り込まれいる。生まれ持った病に苦しみながら裁判官として職務を全うする厳格な父親との葛藤、多くの人間を虐殺に導いた残忍な男の命を一人の医師として救ったことへの自責と批判、農民出身のと親友との固い友情と忠節、やがて反政府運動と一人の美しい女性を巡ってそれが敗れる挫折。ストーリーに沿って、主人公のグレゴリウスが何度も読み返すプラドの文章が挿入され、本の文とにかく色々なテーマが盛り込まれている。中でも、印象的だったのは、キリスト教に代表されるような厳格な神の否定し、理性と忠誠心を絶対的に信じるプラドが、同時に「情熱」を肯定する人生を選択できるか、その葛藤の部分だ。

私は教会のない世界にはすみたくありません。教会の窓の輝きが、冷たい静寂が、圧倒的な沈黙が、私には必要です。オルガンの音色と、祈る人々の聖なる黙想が、私には必要です。言葉の聖性が、偉大なる詩情の崇高さが必要です。これらすべてが、私には必要なのです。ですが同時に私は、自由と、あらゆる残虐に対する敵意をも、同じように必要としています。一方なしでは、もう一方もあり得ないからです。どうか誰も、私に選べと迫らないでください。

これは、プラドがギムナジウムの卒業式で行ったスピーチの一部で、この葛藤は、ある意味近現代の西欧人にとってはお馴染みのものである。

我々人間には荷が重過ぎることがらというものがあります。痛み、孤独、死などもそうですが、美や崇高さや幸福もまたそうです。こういったもののために、我々は宗教を創ったのです。我々が宗教を失ったら、いったいどうなってしまうでしょう?上に挙げたことがらは、いまだに我々には荷が重過ぎます。我々に残されたのは、個々の人生の詩情(ポエジー)のみです。ポエジーは、我々を支えることができるほど強いものでしょうか?

主人公のグレゴリウスもまた、その名前に反して(グレゴリウスは、カトリック教皇によく使われる名前だ)、神を信じていない。彼は古典の精通者であり、現実社会のパッションよりもテキストに重きを置いてきた人間である。しかしまた、彼はその古典の中にあるポエジーを誰よりも愛している。現実社会のパッションを否定して、ポエジーを愛する、ということは可能なのか?或いは、神の救い以外の方法、例えば厳然なる理性的な精神といった方法で、人間が感情や痛みや孤独や死といったものに翻弄される儚い存在であることを脱することが可能なのか?という問い。

プラドも、そしてまた主人公グレゴリウスも、この問いについて、ストーリーの最後に、はっきりとノーを突きつけられる。それでもなお、ポエジーの美しさと崇高さは残る。

ストーリーはそれなりに面白く仕上げてあるが、それなりに重いテーマに向き合った作品である。こういう小節がベストセラーになるということ自体、その国の社会に、キリスト教と西欧哲学思想が、今なお深く根を下ろしていることを実感せずにはいれない。

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