書評・小説 『時の娘』 ジョセフィン・テイ



久しぶりに塩野七生さんの『神の代理人』や『海の都の物語』を読んでイタリア史にハマったら、その流れでスペイン史に興味が沸き、フェリペ2世にしばし没頭。フェリペ2世の仇敵であるエリザベス女王に興味は移り、『エリザベスとエセックス』を読む。そう言えば、ヒラリー・マンテル『ウルフ・ホール』を読んだ時、イギリス中世史の勉強不足を痛感したなあ、と思いあたり、今度は山川出版の『イギリス史』を読んで復習してみる。

ミステリはあまり読まない私だが、こちらの本はインスタのフォロワーさんからご紹介いただき、15世紀イギリスの悪名高き王リチャード3世を扱ったものと知り、手に取ってみた次第。

リチャード3世と言えば、イギリスの内乱、薔薇戦争の最中、エドワード4世亡き後、自分にとっては甥にあたる彼らの息子2人をロンドン塔に幽閉して亡き者にして即位した、という悪名高き王である。それにしても、ノルマン・コンクエストから始まるフランスとの(というより、フランスでの)領土争いの延長線にある「百年戦争」にも増して、この「薔薇戦争」時代のイギリス史は本当に分かりにくい。まだまだフランス勢力の影響を引きずっている上に、ランカシャーとヨークシャーははっきり分かれているわけではなくて、一部の貴族で近親結婚を繰り返して系図が入り組んでいるから、あっちの叔父は紅組で、こっちの伯父は白組、といったことが容易に起こり得るのだ。

どこの学校の生徒だって、リチャード3世の最後のページをめくり終わると、ほっとため息をつく。なぜなら、やっとのことで薔薇戦争が終わり、チュードル朝の治世へと進めるからなのだが、チュードル朝なら退屈ではあっても、まあ、わかりやすいというわけなのだ。

本書にこんな記述が出てきた時にはなるほど、と思った。チューダー朝に入れば、青髭王のヘンリー8世に、ブラッド=メアリに、ヴァージン・クイーン・エリザベス、と、有名どころを順に追っていけばよろしい。しかし、百年戦争からさらにわけの分からない薔薇戦争時代は、何度勉強してもこんがらがってしまう。日本史で言えば、南北朝時代と戦国時代が混ざり合った感じ、だろうか。王座をめぐって下剋上の血みどろな戦いがあるのは戦国時代風だが、《戦争と言うよりは、むしろ、一種の内輪もめみたいなもの》《単なる小規模の内戦、まるきり個人の喧嘩みたいなもの》という性格ももっている、なんとも分かりにくい時代なのである。

この薔薇戦争時代で最大の悪役であるリチャード3世。彼の史上有名な「二人の幼い王子殺し事件」について、目下、怪我で入院中のロンドン市警一の切れ物グラント警部が、暇にまかせて眼をつけ、若い歴史学者ブレントを助手として、見事に事件を解決する、というのがこの小説のストーリー。

リチャード3世の甥殺しについては、イギリスでは当たり前の史実として理解されている。先述した山川出版の『イギリス史』にも、そのエピソードが紹介され、リチャード3世の肖像画にその残忍さが見える、とまで書かれていた。しかし、この当たり前に「待った」をかけるのが、この小説の主人公グラント警部。彼はリチャード3世の肖像画から「残忍な殺人者」ではなく「良心的すぎる病人のような」イメージを見てとる。そして、この誰もが知っている「当たり前の史実」に、実際は客観的な証拠が何もなく、根拠とされているのは、後のテューダー朝ヘンリー7世に変わってから引き立てられたモートン枢機卿の記述のみであることを突き止めるのである。

この、世間では「当たり前の史実」として受け入れられていながら、事実は全く異なるエピソードのことを、主人公グラントは「トニイパンディ」と呼んでいる。「トニイパンディ」とは、南ウェールズの地名で、1910年にストライキを行った鉱夫たちを時の首相チャーチルが軍隊を派遣して弾圧した事件があったとされているところだ。しかし、真相は、暴徒化した坑夫たちを宥めるために、地元の警察署長が内務省に軍隊の派遣を要請、チャーチルは事件の拡大を危惧して、軍隊ではなく代わりに非武装のロンドン警察を派遣しただけ、という《全事件を通じての流血と言えば、一人か二人が鼻血を出したくらいのもの》という些細な事件だったらしい。このように、歴史上にはいくつもの「トニイパンディ」が存在する、というのが、グラントならびに著者ジョセフィン・テイの主張である。もちろん、この「トニイパンディ」は、イギリスだけでなく、どこの国のどこの時代にも存在するものだが、本書でもう一つ例に挙げられているスコットランドの殉教者エピソード、というところが、スコットランド生まれの著者らしくて印象的だった。スコットランドと言えば、日本の沖縄のように、イギリス史の中でも特別な扱いを受けていて、イングランドの圧政に抵抗した悲劇的な殉教者たちのイメージが強い場所である。しかし、今では神聖化されている長老派の信者たちは、《殉教者でも何でもな》く、《俗界の犯罪で有罪と認められたのであって、彼の死は“神の詞“なんかとはなんの関係もなかった》のであり、《当時のスコットランドではその名前さえ呪いの種子だった》くらいの《悪党》なのだ、とグラントは切り捨てている。

歴史はまず勝者が自分の都合の良いように書き換えてしまうものだ、というのは定説ではあるが、この小説の面白さは、この勝者が創り上げた「歴史の定説」を一つのミステリーとして素材にしたことである。

「歴史学者は筆をとる前に心理学の一科を学ぶべしとするべきだな」

「ふうん。そんなことをさせたって、彼らには何の役いも立たないでしょうよ。本当に生きている人間に興味を抱く者は歴史なんか書きませんよ。小説を書くか、精神科の医者になるか、治安判事になるかー」

「さもなければ、ペテン師か」

「さもなければ、ペテン師か。あるいは、占い師。人間というものを本当に理解している人は歴史を書こうというあこがれなんか持ちませんよ。歴史なんて、おもちゃの兵隊です」

「おやおや。すこし手きびしすぎるじゃないか?歴史というのはたいへん学識のある、該博なー」

「ああ、べつにそんなつもりで言ったんじゃないんです。ぼくの言ったのは、つまり、歴史学というやつは、平面の上で小さな存在をあちこち動かしたりしているだけだという意味なんです。そう考えて行くと、半分は数学みたいなものですね」

「じゃ、もし、数学だとすれば、楽屋ばなしのゴシップなどをとり入れる権利もないわけだ」グラントは、ふいに辛辣な言い方をした。聖モアのことを思い出すと、つい、かっとなるのだ。

面白いのは、手厳しく批判されている一人が、リチャード3世と同時代の貴重な証言として扱われているトマス・モアであることだ。主人公グラント警部は、リチャード3世の冷酷さや甥殺しの根拠となっているこの偉大な聖人の証言が、ほぼ同時代と言ってもリチャード3世と実際に面識があったわけではなく、ヘンリー7世時代になってから彼の敵側の人間の証言に基づいていることを突き止める。トマス・モアと言えば、ヒラリー・マンテルの『ウルフ・ホール』でも、冷酷で人情味が薄く狂信的な人物として描かれていたのが印象的だった。イギリスでは伝統的にヘンリー8世時代の偉大な殉教者としてみなされてきた聖モアについて、近年では違う評価が生まれてきているようだ。

歴史を再評価する、と言っても、もちろん作者はこの作品で歴史の研究結果を披露しようというのではない。作者が意図したのは、あくまで歴史の一エピソードをミステリーフィクションの素材に置き換えてみよう、ということだ。この辺りは、巻末において訳者が的確に解説してくれているので引用しておこう。

女史がこの作品で終始一貫、唱えつづけたのは、“ミステリならこういうふうに考えを発展させるのよ“という主張であります。

歴史を歴史学者の眼で眺めるのは歴史学者にまかせておけばいい。しかし、推理作家がそれを眺め直すからには独自の“眼“がある筈です。『時の娘』の場合、その眼は作者テイ女史の分身たるロンドン警視庁のつわものグラント警部の“たたきこんだ警察官の眼“であります。歴史上の一事件をみつめるときも、彼はあくまでプロ刑事としての眼を失わない。物証を重んじ、伝聞証拠を排除し、常に“誰が得をするか(キ・ボノ)を考え、人間心理や感情に対する自然で柔軟な考察をもって推理の根幹とする。

作品中でも、グラント警部がこんな考察をするところがある。

ぼくは警察官らしい気分になっている。警察官らしい考え方もしている。殺人事件のたびにすべての警察官が問いかける質問を自分に問いかけている。ー誰が得をするのか?

ミステリーをあまり読まない私だが、この作品がそういう実験的な作品になっていることで、なるほど、ミステリーの面白さというのはこういうところにあるのか、とすごく腑に落ちた。ミステリー好きも歴史好きもそれぞれに楽しめる、両方好きなら二倍楽しめる、中々面白い小説だった。

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