書評・小説 『ウルフ・ホール』 ヒラリー・マンテル


『世界の8大文学賞』ブッカー賞のところでこの作品が紹介されていて、ずっと読みたいなあ、と思っていた。なんと言っても、ブッカー賞は個人的に最も期待している文学賞だし、しかも舞台がヘンリー8世時代の英国という歴史物である。ヘンリー8世と言えば、英米ではお決まり過ぎてやや新鮮味に欠ける題材。映像作品としても何度も取り上げられていて、私も、ナタリー・ポートマンとスカーレット・ヨハンソン共演というかなりキャスト頼みの(それゆえさほど出来は良くない)映画『ブーリン家の姉妹』を公開時に観に行ったし、エミー賞を受賞した人気ドラマ『THE THUDORS』も観たので、予備知識はそこそこある。こちらの『ウルフ・ホール』も、原作は決して読みやすい作品ではないが、BBCによってテレビドラマ化されている。日本で言えば、「頼朝と政子」とか「秀吉と淀君」とかいうくらい、手垢のついた大河ドラマ感溢れる題材を、ブッカー賞作家がどのように切り取ってみせるのか、返って興味をそそられた。

まず、主人公はクロムウェル、とちょっと変わった趣向。クロムウェルと言っても、日本の学校で習う清教徒革命の立役者オリバー・クロムウェルとは違い、ヘンリー8世の側近を務めたトマス・クロムウェルの方なのでご注意を。有名なオリバー・クロムウェルはこのトマスの子孫にあたる。平民の出身ながら、初めヘンリー8世治下で莫大な富と権力を握ったトマス・ウルジー枢機卿の秘書として名を挙げ、彼が失脚した後は、王自らの庇護を一身に受けて、王室財宝部長官、国王秘書、総監督代理まで昇り詰めた。

このトマス・クロムウェルを軸に、ヘンリー8世の時代の複雑な英国国内情勢、宮廷模様、人間関係が語られる。複数の軸が交錯しているし、登場人物が多くてとにかくややこしい。ややこしいのは、多くの登場人物のうち、男性の大半がトマスかチャールズかヘンリー、女性の大半がメアリかアンかジェーン、という名前のバリエーションの乏しさにも原因がある、が、まあ、これは歴史物としては仕方なかろう。日本だって『平家物語』の登場人物達の名前に辟易としてしまうのは、私だけではないはずだ。それにしても、ウルジー枢機卿の失脚、ブーリン家の台頭と公爵達の思惑、それにスペイン王室からお輿入れしたキャサリン妃との離婚問題、とロンドン宮廷をめぐる情勢は非常に複雑で、巻頭の登場人物一覧だけでは足りず、途中何度もWikipediaさんにお世話になりながら読み進めた。

ヘンリー8世時代の情勢はただでさえ複雑な上に、良く知られているように、彼の女性遍歴がさらにややこしさを上塗りするわけだが、この物語は、その辺りはかなり控え目に書かれている。代わりにスポットを浴びているのが、イギリス国内のキリスト教をめぐる情勢、密かに国内に浸透していく改革派と、それを徹底的に弾圧するカトリック派との攻防である。特に、ヘンリー8世の庇護を受けて大法官にまで出世したトマス・モアの役どころは大きい。

トマス・モアと言えば、『ユートピア』の作者としても知られ、ヘンリー8世の離婚問題でもカトリックへの忠義を貫いた理想的な文人、というイメージがあるが、それがこの小説では覆される。疑わしきものは徹底的に排除し残虐な拷問や火炙りの刑に処すことも厭わない、冷酷非情な弾圧者として描かれている。ロンドン郊外のチェルシーにある自宅で、子供達のための学校を開き、女子教育の必要性を説いたとされる逸話に対しても、著者は極めて懐疑的なようだ。

それが歴史的に正しいかどうかはさておき、今までとは違う側面を見せてくれる、という点では非常に面白い。クロムウェルの仇敵となるトマス・モアがそのように描かれることで、「迷信的カトリック信仰」VS「理性知」という構図が浮かび上がってくる。法に堪能で、会計や財務といった実務に長け、経済的な成功も収めるマルチプレーヤーである主人公クロムウェル。彼の周りには、後にクロムウェルと共にヘンリー8世の離婚問題を法的にバックアップして出世する、リチャード・リッチやトマス・オードリーがいる。そして、ロンドンの商人達の間に広がる「異端」の新しい宗教。本書で「ウィリアム・ティンデール」を匿った咎で火炙りにされる商人が出てくるが、これは聖書の英訳をしたウィリアム・ティンダルのことである。「聖書を読む」という、今ではむしろ信仰に忠実なことの表れに思える行為が、なぜここまで危険視されていたのか。現代では当たり前のことがタブーとされていた背景、それを想像してみることで、当時の人々が捉えられてきた迷信、カトリックによる束縛や圧力、といったものが見えてくる。

だが彼ははちきれんとする力を感じる。枯れ木から春が一気に芽吹くような力を。聖書の普及にともなって、人々の目は新たな真実にむかって開かれていく。これまで人々はヘレン・バレイのように、ノアの洪水は知っていても、聖パウロを知らなかった。われらが聖母の嘆きを思う心は知っていたし、永遠の断罪を受けた者は地獄へひきずりおろされるのも知っていた。だが、多くの奇跡とキリストの言葉は知らなかったし、使徒たちーロンドンの貧乏人のように単純な生き方を追い求めたーの言葉と行動も知らなかった。聖書の物語は人々がこれまで思っていたものよりもずっとずっと大きい。彼は甥のリチャードにいう。人々に話すときは、話の一部だけをしゃべって途中でやめてしまってはならないし、自分で選んだ部分だけをしゃべってもいけない、と。人々は信仰する宗教の場面が教会の壁に描かれ、彫刻で表現されているのを見てきた。だが今、神のペンが持ちあげられ、神が彼らの心の本にみずからの言葉を書こうとしている。

「知への信頼」は、後の近代的啓蒙主義への扉を開く鍵である。しかし、面白いのは、クロムウェルの「知」の捉え方だ。彼の知性は言わば「万能知」的なもので、近代的な「知」の枠組みには当てはめられない広さと深さを持っている。例えば、クロムウェルはルカ・パチリオーニ『数学大全』について《あらゆる詩はここにあると思っている・・・数字だらけのページが詩だというわけじゃないが、正確無比なものはみな美しい。あらゆる部分において均衡を保っているもの、釣り合いの撮れたものはみな美しい》と語っており、その後、帳簿と会計についてこう述べている。

どこかの小僧を雇って、数字の列を総計させ、こちらの鼻先に突きだされた帳簿に了解のサインをし、引きだしにしまいこむのはわけないことだ。しかし、それにどんな意味がある?会計簿のページは、愛の詩のように使われるのを待っている。簿記者がうなずき、片付けるためにあるのではない。可能性にむけて、心を開くためにあるのだ。それは聖書に似ている。思考力をかきたて、行動をおこさせるためにある。隣人を愛せよ。市場を調査せよ。善意の広がりを普及させよ。来年はもっといい数字を提出せよ、そう促しているのだ。

『ウルフ・ホール』が面白いのは、ただ歴史的な物語や叙述だけでなく、こういった知的な思索的な世界観が横溢しているところなのだ。さらに、著者のヒラリー・マンテルは「記憶術」という、不思議な西欧的「知」の用法についても言及している。私は「記憶術」についてはあまり詳しくないのだが、専門書もあるようなので、機会があればまた読んでもう少し深く考察してみたい。本書では古代ギリシアの詩人シモニデスの逸話が引用されている。シモニデスが饗宴の際に偶然一時外に出た際、建物が崩れ落ち、彼以外の大勢の宴客は全て死亡した。見る影もなく崩れ落ち瓦礫の山となった現場で、シモニデスは、事故が起きる直前の大勢の宴客の位置や様相などを事細かに描写してみせたという。これが「場所法」と呼ばれる「記憶術」の源となったのだが、後段、クロムウェルがこの「記憶術」を自分なりに応用してきたことを回想するシーンがある。

彼はイタリアで学んだ記憶方式に画像をくわえていた。森や野原、生け垣の列や低林の絵からたぐりよせられるのは、臆病でこそこそ隠れる動物、下生えに光る目の記憶。(略)ありふれた物体や、見慣れた顔の助けを借りても、記憶のひきだしは開かない。あっと驚く取り合わせ、多少奇妙で滑稽で、下品ですらあるイメージが必要なのだ。イメージをつくりあげたら、自分が選んだ場所にそれらを配置し、そのひとつひとつにひとかたまりの言葉や数字を添える。そうすれば、要求があり次第、それらはただちに応えてくれる。(略)

こうした画像は二次元なので、その上を歩くことができる。(略)

こうしたイメージ作りに慣れているせいだろう。彼の頭には一千の芝居の配役、一万の幕間劇が入っている。こうした習慣のなせるわざで、死んだ妻が吹き抜けに潜んでこちらを見あげ、オースティン・フライアーズやステップニーの家の角をさっと曲がる姿をよく見る。今では妻の姉であるジョハンナのイメージと混ざりあい、リズもものだったすべてがジョハンナのものになりつつある。リズの中途半端な微笑、物問いたげにちらりとよこす視線、服を脱ぐ仕草まで。もう充分だ、と彼がいってリズを頭から消し去るまで。

なんでも「記憶術」は、デジタル化ネット化が急速に進む昨今、再び注目を浴びているそうである。こういう西欧の知識層が喜びそうな世界観と、権謀術数が渦巻くヘンリー8世治下のイギリスという「事実は小説よりも奇なり」としか言いようのないドラマチックな舞台を結びつけ、さらに、クロムウェル個人の人間性的ドラマや文学的詩的な表現なども豊富に織り込まれている。エンターテイメント性がたっぷりありながら、思索的な奥深さと余韻を十分残している。さすがブッカー賞を2回受賞したこの作者は只者ではない。

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