書評・小説 『なかなか暮れない夏の夕暮れ』 江國 香織


主人公は50代の男性、稔。実家は莫大な資産家で、親友の税理士大竹に言われるがままに財産管理をし、財団や親類との最低限の付き合いに顔を出し、利益にはならないソフトクリーム専門店の形ばかりの社長業をするほかは、本ばかり読んで暮らしている。同じく気ままにベルリンと日本を行ったり来たりして過ごしている写真家の姉の雀、元恋人の渚とその間に産まれた娘の波十など、彼の身の回りの人々をめぐる、全くもってドラマティックではない物語。タイトルのように、なかなか終わらない一夏。

幾重にも重なった物語の楽しさが、この小説の魅力だ。稔の身の周りの登場人物たちの物語に加え、稔が読んでいる二冊の本、北欧を舞台にしたハードボイルドなミステリーと、熱帯のイビサ島を舞台にしたハーレクイン的ロマンスの物語が、錯綜して進行していく。稔と同年代のレズビアン・カップルであるチカとさやか、20歳前にシングルマザーとなって現実と格闘する由麻と稔のおすすめした本を読みながら呑気にソフトクリーム店に勤める茜、再婚した若い妻に執着するあまり一方的な三行半を叩きつけられて呆然とする大竹。本の中の現実の物語と、本の中の本の世界の物語とは、境界線なく並列して存在している。人生そのもの、世界そのものが、現実と虚構の差別なく、数多の物語で織り成されている不思議さ。その物語に浸って、読んで読まれていく快楽が、小説でまるごと表現されているのだ。

江國香織さんの小説は、昔すごくハマったことがあって、当時続けざまに読んだ。期待が大き過ぎたせいか、『左岸』や『がらくた』あたりでガッカリして、それ以来長編小説は読まないでいたのだが、最近、Instagramでフォロワーさんの投稿を読んでいるうちにまた読んでみたくなった。

昔は本当に浸りきって彼女の物語を読んだものだけど、久しぶりに読んだこの本にはちょっぴり違和感を感じた。この違和感は、村上春樹さんの『騎士団長殺し』を読んだ時と似ている。江國さんの小説に出てくる人たちも、村上春樹さんのそれと少し似ていて、なんというか現実の重さからふわふわと浮いていて「軽い」。若い頃はその軽やかさがとっても魅力的だったのに、どうしてそれが今は、なんとなく不自然に居心地悪く感じられるのだろう。実際、主人公の稔みたいな50歳の男がいたら、相当気持ち悪いだろうなと思う。20歳そこそこの由麻が、こんな50オヤジに子供を認知してもらって世話になる、というのもかなり薄気味悪い。『騎士団長殺し』の時と同じく、別にこの小説にリアリティは必要ないじゃない、と百も承知で、やっぱり「こんなやついない」という違和感が読みながら去らないのである。書き手の加齢のせいなのか、読み手の加齢のせいなのか、答えはその中間あたりにありそうだ。

で、「中年としての感覚」には違和感ありまくりなのだが、相変わらず江國香織さんは「子供としての感覚」にはものすごく鋭敏で繊細で、そこは読んでいて何の違和感もなく楽しめる。

稔の娘の波十が留守番しているシーンは秀逸だ。

家に大人が誰もいないとき、いつも波十が読んでいる童話の本のなかでは、たいてい特別なことが起る。虫が喋るとか、秘密の場所に連れて行ってくれるとか。もちろん、ほんとうにそういうことが起ると期待していたわけではない。そういうのはお話のなかでだけ起ることだ。でもー。それよりももうすこし軽い特別なことなら、大いに起り得るはずだ。大人のいない家のなかは、大人のいる家のなかと、たしかに全然違うのだから。

たしかにそうなのだ。私たちは、いつのまにこういう感覚を忘れてしまい、そしてまた、江國さんは、どうやっていつまでもこういう感覚を忘れずにいられるのだろう。

微妙な繊細さだけではなくて、たとえば、稔がついてないことが連続した時に「ダブルショーーーック」という小・中学生男児的なくだらない言葉を突然思い出すところとか、さやかがチカに説明してみせる「もう凄まじく」「かわいくておもしろかった」小さい男の子怪獣ごっこの様子とか、それこそ「もう凄まじく」子供の感覚が溢れていて面白い。物語の最後のほう、波十と雀の運動会のやりとりも最高だ。

「へえ、運動会。波十はどんな種目にでるの?」雀ちゃんが訊き、たばこに火をつける。「五十メートル走と、マスゲームと、ポルカ・デ・取るか」こたえると、雀ちゃんはぎょっとした顔をした。・・・「説明したら、それがどんな競技か」母親が言い、でも雀ちゃんは母親と波十に背中を向けたまま、「いい。聞きたくない」とこたえて、「ポルカ・デ・取るか」と、くり返した。途切れていた音楽が再び始まる。

「大丈夫よ、波十。大人になれば、そんなのはもう誰にもやらされずにすむから」

「ポルカ・デ・取るか」。それに対して憤慨するわけでもなく小馬鹿にするわけでもなく、雀さんが「ぎょっと」するところなんて、江國香織のセンスは天才的だ。

もう一つ、何と言っても江國香織さんの小説で楽しいのは、川上弘美さんの『おめでとう』の記事でも書いた通り、美味しそうなものがいっぱい出てくるところである。

稔が読んでいる本から抜け出してきたピッティパンナ(スウェーデンのじゃがいも料理)、プランテイン(青バナナのフライ)、カルニタス(豚肉をオレンジの皮と果汁と大蒜で煮込んだメキシコ料理)といった珍しい料理に興味津々。

小料理屋を営んでいるチカの料理は、文句なしに美味しそう。スペイン風オムレツと、夏セリのサラダと、茹でたとうもろこしと、手羽先の唐揚げのお持たせ。お店の冷蔵庫には、スライスして茹でたゴーヤ、なすの煮びたし、たれに浸かった切り身魚、うずらの玉子などがタッパに並べられていて、出てくるお料理は、焼き茄子と枝豆と天豆、ずいきの入った冷製茶碗蒸し、鮎の春巻、銀鱈の西京焼、穴子の白焼きと冷やしトマト。

開店前のカウンター席に腰掛けたさやかが梅酒を飲む横で、チカが包丁に体重をかけて茹であがったとうもろこしをざくざくと切っているところもそそるし、暑い夏の休日に「こういう日は水ぎょうざでしょ」と言ってチカがつくるトマト入りの水ぎょうざ、稔が大竹の離婚話の最中に「いいからたべてみろよ」とすすめずにはいられないエンドウマメのすり流し、なんてどうしても食べてみたい。

凝った料理だけでなく、稔が蛤を大量に茹でておすましをつくるところや、病気の茜に母がつくってくれるこまかく刻んだしょうがと青菜が入ったお粥、帰国した雀が食べるおこわの緑茶漬けなど、細かいすみずみまで「ああ、この人は(そして自分は)本当に食べることが好きなんだなあ」という感じがして、読んでいて至極幸せなのである。

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