言わずと知れた村上春樹のデビュー作である。
村上春樹の小説は一通り読んでいるので、こちらも10年以上前に読んでいるはずだが、それほど印象に残っていなかった。佐渡島庸平さんが『We are lonely, but not alone』の巻末に色々お薦めの図書を紹介していて、その中《最も繰り返し読んだ作品。村上春樹作品の中で、この処女作が最も好き。削れる一文を探そうとして読み返しても、どの一文も呼応し合っていて、どれも削れない。完成度がすごく高い小説だと思う。》と大絶賛していて、再読しようかなあ、と少し前から気になっていた。
超有名作品で、大御所の処女作なのだが、ちょっとググッてみると、思いのほか、書評が少ない。いくつか書評を読んでみても、作品中に出てくる《汝らは地の塩なり 》の新約聖書マタイ伝第5章の言葉を引き合いに哲学的な分析をしているものもあれば、「よくわからない」とか「イメージの羅列で意味はあまりない」みたいな評価の人もいて、短い作品ながら読み手の印象は様々である。
確かに、この作品はとっても解釈というか分析が難しい。全体的に、村上春樹の小説は「よくわからない感」を残ることに意味があるのだが、この作品と比べると、例えば大ヒットの『ノルウェイの森』だとか、最近の『1Q84』や『騎士団長殺し』なんて、随分、わかりやすさを表に出している作品だと思う。作者としても物語の一貫性や論理性を敢えて排除しているんだろうから、こういう作品を四角四面に論評するのは、正しくない、というか、私個人の趣味にもあまり合わない、と思ってしまう。なので、そこに溢れるモティーフとイメージだけを記録的に記しておきたい。
デビュー作、という観点からだけちょっと解釈してみると、長い作品ではないのに、ここにはすでに、後の村上春樹小説に共通するモティーフやイメージが豊富に散りばめられている。
お酒や車の具体的な名前、スノッブさ(主人公たちはかなり金持ちのお気楽な生活を送っている)、精神を病む少女、さりげなく美味しそうな料理描写にサンドイッチ、火星人の掘った異次元と通じている深淵としての「穴」などなど。
海外文学やちょっとマニアックな映画。物語の中核にいるデレク・ハートフィールドは架空の作家だが、ヘミングウェイやフィッツジェラルドと同年代である。彼の最も好きな作品は『ジャン・クリストフ』作品はのちのレイ・ブラッドベリを彷彿させるものがある。フローベルの『感情教育』にモリエール、ミシュレ、それから先述した聖書マタイ伝の言葉に、最後はニーチェの言葉で終わる。映画監督ロジャ・ヴァディムの言葉があり、若い頃は、『戦場にかける橋』を観るが、今の僕はサム・ペキンパーの『ガルシアの首』や『灰とダイヤモンド』(ポーランド映画、アンジェイ・ワイダ監督)がお気に入りだ。
そしてもちろん、圧倒的な音楽の数々。ベートベンのピアノ・コンチェルト3番、マイルス・デイビスの『ギャル・イン・キャリコ』といったクラシックとジャズの名曲が出てくるのはもちろんだが、プレスリーやピーター・ポール&マリー、ビーチ・ボーイズなどノスタルジックな曲も多い。ボブ・ディランやマービン・ゲイ、フランスのロックシンガー、ジョニー・アリディやイタリア民謡まで、意図的に多岐にわたるモティーフを散りばめているのがわかる。
『騎士団長殺し』で結構辛口なコメントをしてしまった私だが、『風の歌を聴け』を読むと、村上春樹の今では使い古されたモティーフが、俄然、生き生きと若々しく心に迫ってくるから不思議である。軽やかさが、虚無感と一体となって、自分が静かに吹き飛ばされていくような感覚。そうそう、これが村上春樹だよね、という。
ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』はもちろん、聖書やニーチェの言葉まで引き出す「文化と知識の横溢と過剰」みたいなところは、庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』に似た時代性を感じた。考えてみれば、両作者は一回りくらい歳が違うけれど、『赤頭巾ちゃん気をつけて』と『風の歌を聴け』が対象としている年代は同じくらいのはずなのである。だからどことなく精神的に似た雰囲気もあるのだが、後者の方がずっと即物的なモティーフに溢れていて、それなのに軽くて虚無感に満ちている。その時代の行く末を暗示するようなところこそ、後者の作者が長く令和の時代まで読まれるようになった一つの理由とも言えるのだろう。
〈参考〉
●村上春樹の小説に何度も登場する異次元的「穴」のモティーフについては、フランス文学者内田樹氏のこちらの記事が参考になる。村上春樹がよく言及しているフィッツジェラルドの『グレート・ギャッツビー』についての考察も興味深く、『グレート・ギャッツビー』と村上春樹の関係については、また別の機会に記事にしたい。
●この本の書評を斜め読みした中では、読書ブログを書いている「チェコ好き」さんの書評が面白かった、と言うか、分析的でないのに面白くて好きだった。
もう一度読む、村上春樹『風の歌を聴け』感想文(「チェコ好きの日記」)
「チェコ好き」さんの記事はどれも面白いが、村上春樹の好き嫌いについて書いた人気記事もおススメである。
村上春樹の「好き」「嫌い」はどこで分かれるのか?に関する一考察(「チェコ好きの日記」)
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