『貧乏人の経済学』をお得に読む
第二部の第六章で扱うお題は「リスク分散と保険」について。貧乏な人はの生活は、そうでない人達よりもずっと不確実性が高く、リスク耐性が低いということが検証される。また、そういう常に高いリスクに晒され自分の生活や人生がコントロール不能であるという感覚を持ち続けることが、精神的にも悪影響を及ぼすことも指摘されている。
リスクに直面すると(所得リスクだけでなく、死や病気のリスクも含みます)、人は不安になり、不安になると緊張して憂鬱になります。鬱の症状は貧乏人のあいだにはずっとたくさん見られます。緊張していると集中できず、これは生産性を下げます。
医療保険を含めて、貧乏人にこそ保険が必要なのは明らかなのだが、貧乏な人ほどコストを先送りしがちなこと、《市場が提供できるような保険というのが、本当に危機的なシナリオに対してだけ人々を保護するようなものに限られてしまう》ことなどを考慮すると、民間保険市場だけでは限界がある。政府の思い切った介入が必要な分野であると主張している。
第七章は「ファイナンス」。そもそも、貧乏人が多くの場合、多額高利な借金をしている、という事実自体がマイクロファイナンスの登場まではあまり知られていなかった。なぜ、貧乏な人がそのような破格の金利を払って違法な借金をしているのか、ここに民間金融機関の手が伸びないのはなぜなのか。
貧乏人への融資で主要な制約は、彼らについての情報収集なので、彼らのことをよく知っている人たちから借金をしているのも筋の通った話です。(略)奇妙に思えるかもしれませんが、こうした契約強制の重視のおかげで、貧乏人は支払いが滞ったら本気で自分を痛めつけることができる相手からお金を借りるようになります。
ここで、ノーベル平和賞を受賞したムハマド・ユヌス氏らが提唱するマイクロファイナンスの出番になるわけだが、記事①でも説明した通り、RCTを使った検証によると、マイクロファイナンスが万能の薬というわけではなさそうである。マイクロファイナンスの融資モデルが一律硬直的なものにならざるをえない、という問題もあるし、共同責任的なモデルであるがために、本当にリスクテイクする起業精神とは相反している、という問題もある。この問題は、第七章を挟んで、第九章へと繋がっていく。
第八章のお題は「貯蓄」である。これは、私も最初、不思議に思った。本書が対象としているのは、最貧困層の貧乏人、《1日99セント以下で暮らす》ような人々なのだ。そんな人達が、融資はともかく貯蓄をしているとは?とてもそんな余裕などないと思ってしまうのが、普通の考えなのだが、実は、貧乏な人達も、私たちと同じように蓄財の方法をあれこれ試行しているのである。西ケニアの屋台商人ジェニファー・アウマさんが、6種類の規模や頻度の違う回転型貯蓄信用組合ROSCA(毎回メンバーがお鍋に同じ金額を預け、順繰りに受け取るシステム)や村落貯蓄銀行やへそくりを駆使して、株を調達したり家を建てたり、顧客にお金を貸したりしている実態は、目を見張るものだった。ここは、第七、八章の話も大きく関係してくる。不確実性が非常に高いのに、十分な保険も無ければ、貧乏人がたとえギリギリの生活の中でも貯蓄をしようとするのは当然であるし、また、違法や高利という問題はあっても、ファイナンスする方法も実はあるわけである。
近年のマイクロ融資支持者らの動きのとてもよいところは、あらゆる貧乏な男女のなかに資本主義者の方がを認めることで、貧乏な人がまったく何も気にかけないとか、まったく無能だといった見方を否定したことでした。
ここには、本書の大きなコンセプトが隠されている。つまり、最貧困層の人々も、私たちの生活と同じように、借り入れをしてビジネスに投資したり家を建てたり、もしもの為に備えて貯蓄したり、している、ということだ。そして、それが中々うまくいかないという理由自体も、実は、私たちのそれと根本的には変わらない。ただ、それが、貧乏であればあるほど、より不確実性が高かったり、目の前の肉体的ニーズが優先されて誘惑に負けやすかったり、制度が不足している為に意思決定にストレスを伴うものであったりするのだ。だからこそ、貧乏な人達にセーフティーネットによる安心感を与えて、低コストで身近な貯蓄制度を提供する必要があるのである。
もっと大きなポイントとしては、ちょっとした希望と多少の励ましや落ち着きが強力なインセンティブになるということです。すでに十分持っていて、生活は保証され、まともに自身を持って実現を目指せる目標(あの新しいソファ、あの50インチの液晶テレビ、あの2台目の車)によって構造づけられ、その実現を助けてくれる制度(貯蓄口座、年金プログラム、ホームエクイティローン)などもあるわたしたちは、ヴィクトリア朝の人々と同じく、動機や規律は生得的なものだと思ってしまいがちです。わたしたちに言わせれば、ほとんどの場合の問題は逆です。欲しいものがすべて、どうしようもなくての届かないところにあるように見えたら、やる気を維持するのはあまりにむずかしい。ゴールポストをもっと近づけてあげることこそ、まさに貧乏な人がそれを目指して走り出すために必要なものなのかもしれないのです。
第九章は、「起業と職業」について。これは、第七章で検証したマイクロファイナンスだけでは貧困撲滅に十分ではないこととも大きく関係してくる。マイクロファイナンスの成功神話の裏には、《貧乏な人が天性の起業家たちで、出発ための環境とちょっとした助けを与えれば、貧困なんか削減できる》という間違ったイメージがある。これが万人にあてはまるものではないことを、「極小事業のほとんどが限界収益は高いが、総収益(利益の絶対額)が極めて低く、生活を改善するほどに至らない」という現実が教えてくれるのである。
これが貧しい人とその事業のパラドックスです。みんなエネルギッシュで創意にあふれ、わずかな元手でかなりのものを生み出します。でもそのエネルギーの大半は、あまりに小さすぎてまわりの事業と何ひとつ差がないものに向けられています。だからその事業主たちは、まともな暮らしができるほどの稼ぎをまったく期待できません。
もちろん、その限界を打ち破って成功する者もいるが、それは限られた機会や才能や精神力を得る者だけである。そういうレアケースをあてにするよりも、貧乏な人達の雇用の安定性を図ることの方が重要で、それはマイクロファイナンスだけで解決できる問題ではなく、中規模企業の育成による雇用創出などが必要だとしている。
第十章は、貧困を生み助長している「政治の腐敗や汚職」について。アフリカ、南米、アジアなどの貧困層が多い国では、政治の腐敗や汚職が根強く残っており、それが先進国の援助や健全な発展の妨げになってきた。「援助推進派」がいくらビッグプッシュを主張しても、根本的な解決に繋がらい一因となっているわけだが、容易に解決が難しい問題でもある。先進国が問題の解決を急げば、それは直ちに「政治介入」となる恐れがある。「援助懐疑派」が援助の有効性と正当性を大きく疑問視するのも一理ある。
(援助懐疑派の代表『なぜ国は失敗するのか』の著者である)アセモグルとロビンソンに言わせると、ダメな政治制度の長い影こそが、発展途上国の多くが成長できない主因なのです。こうした国が植民地時代から引き継いだ制度は、その国の発展を意図したものではなく、植民地支配者たちが自分たちの利益になるよう、資源を最大限に収奪できる構造となっているのです。植民地支配から脱しても、新しい支配者たちは同じ収奪的な制度を維持して、自分の利益のためにそれを使うほうが便利だと気がつき、これにより負のスパイラルができあがります。
抜本的に政治や国の制度を変える介入は難しいけれども、RCTによる選挙のモニタリングやアセスメントの効果検証などを例に、周縁部分で制度や政策を改善する余地はある、細かい変化の積み重ねが重要なのだと主張している。
最終章では、「網羅的な結論にかえて」と題し、時間はかかっても小さな解決策の積み重ねでゆっくりと時間をかけて確実に貧困問題を解決する重要性を説いている。ジェフリー・サックスが「2025年までに貧困を根絶やしにする」とミレニアム目標をぶち上げたビッグプッシュ論とは対立するが、だからと言って、イースタリーのような全面的な援助懐疑派に与するわけでもない。これが、RCTを使った彼らの主張が「慎ましすぎる」とか「悲観的過ぎる」とか或いは「どっちつかずだ」とか批判されるゆえんでもある。しかし、「援助推進派」と「援助懐疑派」のイデオロギー的な論争に拘泥していては、貧しい人々の生活は1ミリも改善していかないことも事実だろう。
本書はある意味で、もっと細かく見ようという招待状にすぎません。あらゆる問題を同じ一般原理に還元してしまう、怠惰で紋切り型の発送を拒絶しましょう。貧乏な人たち自身に耳を傾けて、彼らの選択の論理をがんばって理解しましょう。まちがえる可能性を受け入れて、あらゆる発想、それも明らかに常識としか思えない発想も含めて厳密な実証試験にかけましょう。そうすれば、有効な政策のツールボックスが構築できるだけでなく、なぜ貧乏な人が今のような暮らしをしているかも理解しやすくなるのです。こうした辛抱強い理解を武器に、本当の貧困の罠がどこにあるのかも見つけられるし、そこから貧乏人たちが抜け出すためにはどんな道具を与えるべきなのかもわかります。
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