書評・小説 『マチネの終わりに』 平野 啓一郎


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2015年3月から2016年1月まで毎日新聞で連載された平野啓一郎の長編小説。昨年(2019年)に福山雅治、石田ゆり子主演で映画化され話題となっていて、Instagramでも度々投稿されていたので、読んでみた。

いろんなところで話題とされているので、ストーリーの説明は割愛するが、巷で言われているように、「大感動のラブ・ストーリー」とは余り感じられなかった。運命的な出会いをして惹かれ合う天才クラシック・ギタリスト蒔野と、有名なクロアチア人映画監督の娘で国際ジャーナリストでもある才媛洋子だが、ある出来事をきっかけに2人の仲は引き裂かれる。まあ、いろいろ誤解や不幸が重なるということはあるにしろ、私には「そんな程度のことで引き裂かれるなら所詮そんな仲なのだろう」というふうにしか感じられないのだ。宿命的な恋愛なんてあまり信じられない心の干からびたおばさんですみません(笑)でも、その時にすれ違いや強がりを克服できなかったのだから、そのままの2人であれば、結局その偶然をかいくぐっても、いずれうまくいかなくなっていただろう、と思わずにはいられないのだが・・・うーん、どうでしょう。

あと、主人公以外の登場人物、特に、最終的に2人の結婚相手となる、リチャードと早苗、の人物像に深みが無いのもイマイチ気に入らない。なんというか、ステレオタイプなのだ。これも個人的好みなのかもしれないが、私はフランク・コンロイの『マンハッタン物語』の記事で書いたように、登場人物1人1人が生き生きとして余白というか余韻というか、もっと奥にある物語や歴史を感じさせるような描き方の方が物語として魅力を感じる。リチャードも早苗も単純化されてしまっているのだが、こういう方が、主人公2人の「特別感」が演出されて分かりやすいのかもしれない。終始クラシック・ギタリストの蒔野の天才ぶりを特別なもの、常人とは異質のものとして扱っているのも、どうも釈然としない。こういう「芸術家=特別な人間」とか「選ばれた、分かる人間」とかいう定義の仕方、そして、「それ以外のひと」と容易に括ってしまうような人間像というのは、昨今の流行りの日本小説には実に多い気がする。凡人の僻みと言われればそれまでだが・・・しかし、創作する方の心情は置いておくとして、凡人の多くがこういう人間像と物語を好む心情というか傾向というものは、ちょっと興味深いよなあ、なんて思うのである。

あまり良くないことを先に書いてしまったが、そういう点を除けば、小説としては実に面白く読めた。平野啓一郎さんは、デビュー作の『日蝕』やショパンを題材にした『葬送』などを読んだが、かなり知性文学派というかやや堅苦しく難解な文章を書く印象が強かった。それが、この作品では、随分文章自体が柔らかになり、小説らしくディティールやストーリーに「浸る快楽」というのを大事にしていて、良い意味でのエンターテイメント性がぐっと増している。

舞台を東京、パリ、ニューヨークのほか、長崎やバグダットなどの都市に移し、国際色豊かに描いているところ。イラク、サブプライムから難民問題に至るまで、様々な国際情勢を盛り込んだ上に、バッハやアランフェス協奏曲などクラシックやギター音楽の名曲はもちろん、トーマス・マンの『ヴェニスに死す』を筆頭に、リルケの『ドゥイノの悲歌』やゲーテの『ヘルマンとドロテーア』、フランスの詩人ルネ・シャールや、はたまた『新約聖書』からマリアとマルタの逸話を引っ張り出すところなど、著者の文学的素養の高さを十二分に発揮している。そういうかなりハイソな教養から、音楽ではブリトニー・スピアーズや当時のニューヨークと切り離せないJAY-Z&アリシア・キースの「エンパイア・ステート・オブ・マインド」が出てきたり、主人公の蒔野の自宅に置かれているイタリアのモダン家具リーン・ローゼのソファ、ニューヨークの豪華なパーティーが繰り広げられるペントハウスに置かれたザハ・ハディッドのソファ、洋子が自宅で振る舞う手料理はモロッコで買ってきたタジン鍋、など、ややスノッブでミーハーな流行的要素もしっかり取り入れられている。(寡聞にして知らなかったのだが、ザハ・ハディッドは、日本の「新国立競技場」をデザインしたことでも有名なイラク・バグダード出身の建築家だが、高級家具ブランドと提携して多くの家具デザインも手掛けているらしい。ちょうど2014年に日本発の彼女の個展が東京オペラシティで開催されていたらしく、2015年の総工費2520億円の「新国立競技場」デザインと相まって、連載中にはかなりホットな話題であったろう)

国際色豊かで、音楽や文学的素養の要求されるディティールに満ちていてる長編小説・・・と言うと、村上春樹である。村上春樹の「軽やかさ」とはまた違うが、これはこれで、平野啓一郎さんの格式高い教養とエンターテイメント性がマッチしていていい感じである。特に、主人公がクラシック・ギタリストと言うことで、作品中の音楽へのこだわりは並々ならぬものがあるが、やはりクラシック音楽は最終的にバッハに収斂する、と言うか、バッハの『無伴奏チェロ』が重要な役割を果たすのも印象的だった。バッハの『無伴奏チェロ』と言えば、村上春樹の『羊をめぐる冒険』でも出てくるし、そもそも『ノルウェイの森』では、バッハのフーガをギターで演奏するシーンがあったなあ。

こういう、エンターテイメント性の重視は、WE ARE LONELY BUT NOT ALONEの佐渡島傭平氏が代表を勤める「コルク」が、平野啓一郎さんの作家プロデュースに一役買っているのとも関係があるのかもしれない。この『マチネの終わりに』の特設サイトでは、著者が「ページをめくりたくない、ずっとその世界に浸りきっていたい」小説にこだわった、と書かれているが、「ページをめくりたくなる」=ストーリー性で引っ張る小説ではなく、ディティールを重視して読者を浸らせる、というのが一つの答え、ということなのだろう。そもそも、映画ではなく小説の一作品の「特設サイト」がある、ということ自体が、プロデュース法として非常に面白い。平野啓一郎さんご自身の教養があり過ぎて、始めの頃の作品はやや堅苦しく難解な純文学、という感じがしたので、思い切ってエンターテイメントの方に大きく舵を切った今後の作品も楽しみだ。

最後に、心に残った一節を引用。

「美っていうのは、そういう厄介な仕事をずっと担わされてきて、もうくたびれ果ててるんじゃないかと思うことがある。」

洋子は、すぐに返事をせずに、少し考えてから口を開いた。

「やっぱり、ロマン主義以降かしらね、美にあまり多くの期待が伸しかかるようになったのは。美しく無いものまで、随分と面倒を看てきたから・・・でも、表現すべきものを媒介するだけじゃなくて、この世界の悲惨さから、束の間、目を背けさせてくれる力もあるでしょう、美には?」

「あるけど、それについても、些か悲観的でね、最近は。・・・美には、人気が衰えながら、辛うじて舞台に立ち続けてる往年の歌手みたいなところがあるよ。美のファンは減ってるよ、明らかに。」

「美も仕事を選んでるのよ、その分。もう良い仕事だけすれば十分な存在なんだから。」

恋愛小説の中に、バッハの「美」から人類知まで、なんなく盛り込んでしまうところが、平野啓一郎さんのすごいところだと思う。

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