いまひとたびの、森瑤子 ②


彼女のデビュー作『情事』をはじめ、『誘惑』『嫉妬』など初期に書かれた作品の幾つかが、森瑤子の本当に書きたかった、或いは、書かずにはいられなかったテーマで、その後の膨大な作品群は、その幾つかの核となった作品の単なる焼き直しのように思えるところがある。そういう意味では、売れっ子作家となった彼女は、かなり商業的な戦略と意図を持って、後半の膨大な作品群を書いていたと思う。

逆に、彼女は、「読者にウケない」「時代が求めていない」テーマは敢えて自分の中で掘り下げず、切り捨てた、とも言える。例えば、昭和男児も真っ青な保守的英国人男性アイヴァン・ブラッキンと結婚したことは、話題の女流作家(これも今では死語に近いが)の重要な一面だった。しかし、彼女はイギリス人男性の保守性や国際結婚の難しさ、などについては、エッセイを含め何度も言及しているが、白人からの人種的差別の経験、については殆ど触れていない。この時代に白人男性と結婚し、彼と一緒に日本だけでなく欧州やアジアの各国を旅行して回った体験を綴っているのに、全くそういうことを感じ無かったとは思えない。事実、初期の『誘惑』や『熱い風』といった作品には、夫の故郷に帰省したアジア人妻シナが微妙な差別を感じる場面が描かれている。しかし、後半の彼女のエッセイや小説に出てくるのは、華やかな外国人妻の生活ぶりばかりで、そんな経験は忘れ去られてしまったかのようだ。彼女のコンプレックスから見たくなかったのかもしれないし、或いは、バブルに燃える日本では、そういう視点は読者が必要としなかったのかもしれない。

初期の『誘惑』や『熱い風』には、もう一つ後の作品には出てこないテーマがあって、「親の老い」というのがそれである。これも、現代だったら、すごく注目をひくテーマだと思うのだが、森瑤子自身は「強い親との葛藤」という方にテーマに全てを収斂させてしまい、後半の作品では「親の老い」というテーマは殆ど顧みられない。これも、彼女が好まなかったのか、或いは時代が求めていなかったのか、意図して切り捨てられたテーマだったのではないかと思う。

森瑤子が商業的な作家として成功したことは確かで、今みたいに、わざわざ製本して世に出すほどの作品か?と思えるような小説で溢れ返っているような時代になってみれば、それほど目くじらたてるほどのこととも思えない。作品だけで勝負するのではなく、タレントよろしく、作家のプライベートや経歴で名前を売る、というのも、今では全く珍しくない。

篠田節子が『第4の神話』で描いた作家像、華やかな生活のために借金に塗れ、それを返済するために中身の薄い小説を量産し、センセーショナルに世に扱われながら、死後5年で忘れ去られる流行作家、という批判的な視線は、現代から見ると、やや意地悪に過ぎるようにも思える。現代だったら、彼女のやり方も、もっとマイルドに普通のこととして受け取られたのではないか。ある意味で、森瑤子は時代を先取りし過ぎたのかもしれない。

ただ、作家森瑤子の魅力は、それだけにあるのではない。確かに、彼女の作品の全てが何十年も残るものだとは言い難いが、特に初期の作品を含め、心に引っかかる何かがあるのも事実である。だから、今では新刊書店で彼女の作品を見かけることは殆ど無いが、幾つかの本は中古でも結構な値段を付けているし、何十年も経ってから彼女のノンフィクションが出版されていることからも、根強いファンがいるのが窺える。

森瑤子の小説でとにかく繰り返し読者が突きつけられること。繰り返しのエピソードや表現やディティールを超えて、もういいよ、というほど突きつけられるのは「人は孤独だ」というテーマである。何度も何度も、森瑤子は書く。人間は、あんな風にも、こんな風にも、孤独だ、と。それこそ、読む方が先にうんざりしてしまうくらいに。何度も何度もなぞるのだ。セックスの問題、主婦の倦怠、不倫の情熱と破綻、夫婦の男女の分かり合えなさ、親子の行き詰まり、そういうものを何度も何度もなぞって、結局、「人は孤独だ」と確認する。森瑤子の小説には常にそれがあって、その予定調和的な孤独の確認行為が、読者を惹きつける力になっていると思う。

私がこの記事のタイトルを「いまひとたびの」としたのは、自分の中で懐かしい作家をふと思い出した、という理由だけではない。森瑤子の小説を、今、若い女性が読んだらどう感じるのかなあ、というのが知りたくて、今更ながら、ブーム再燃しないかなあ、なんて心密かな願いを込めているのである。森瑤子は、時代を象徴し、先駆けた作家だ。彼女のスノッブさ、バブルな華やかさ、今では違和感のある保守的な夫婦像、不倫には鷹揚なのに未婚の女性には「切り札」的な要素も強く残る錯綜した貞操観念、そういうものが、今の若い人にはどんな風に感じられるのだろうか、そういう興味がある。

「セックス」も彼女の小説の中の非常に大きなテーマで、そのこともまた別の機会で触れたいと思うのだが、今の人からしたら、返ってこだわりが強過ぎると感じられる部分もあるだろう。それは、セックスに束縛された反面だ、という捉え方もできる。何しろ、あのギラギラの(と下の世代には思える)林真理子をして「セックスにこだわり過ぎ」と言わしめているのだから。解放され過ぎて今や逆に淡白になりつつある若い世代からしたら、鼻白むところもあるかもしれないが、こういう時代を経て今があるのだ、と思えば、それもまた面白い。

そして、そういう時代と共に感じ方も捉え方も変化してしまった部分を超えて、彼女の作品に共感できるものもまた、あるのではないか、と思うのだ。村上春樹の最新作『騎士団長殺し』の記事で書いた通り、私はなんとなくこの大御所作者と現代の感覚の「ズレ」のようなものを感じ始めているのだが、それにも関わらず、村上春樹は若い人にも人気のある作家なのである。多分、私が感じている面白さと、今の若い人が感じている面白さは、少し別のところにあるような感じもするし、結局、読者が惹きつけられるのはいつも同じ部分なのではないか、とも思う。森瑤子についても、同じことが言えるかもしれない。時代を敏感に反映したものと、そうでないもの、両方の面白さが、その作品の中には確かにあるのである。

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