書評・小説 『1973年のピンボール』 村上 春樹


『風の歌を聴け』の後、『羊をめぐる冒険』そして『ダンス・ダンス・ダンス』に続く4部作シリーズの2作目にあたる。

長編小説だが、村上春樹の作品の中ではちょっと特異な作品だと思う。村上春樹お得意の、文学、音楽、グルメについての具体的モティーフが殆ど出てこない。作品を取り巻く徹底的な虚無感は、前作の『風の歌を聴け』と似ているが、『風の歌を聴け』では後の長編作品に通ずる、モティーフの溢れるイメージと羅列が印象的だった。この『1973年のピンボール』にはそれが殆どない。グルメに至っては、奇妙な双子の美少女達とピクニックして食べる《椎茸とほうれん草のサンドウィッチ》が出てくるくらい。音楽も、職場で聴くサビ抜きの「ペニー・レイン」に、スタン・ゲッツ、アル・ヘイグ、ジミー・レイニー、タイニー・カーン、と控えめだ。(最後に出てくる「ラバーソウル」は印象的)

井戸(=穴)へのこだわり、猫殺しに表象される絶対悪的なもの、ピンボールの墓場という異次元空間、その後の村上春樹の作品に共通するテーマも垣間見える。

でも、とにかくこの作品で印象に残るのは、徹底的な虚無感だ。『風の歌を聴け』で、夏の風のように微かに漂っていた虚無感は、秋のしんみりとした空気のように、ここでは重たくまとわりついてくる。

それから女のことを考える。窓際に立って灯台の灯りを眺め、暗い突堤を目で辿り、女のアパートのあたりを眺めた。暗い闇を打つ波の音を思い、アパートの窓に落ちかかる砂の音を思った。そしてどれだけ思いをめぐらせても1センチも前に進むことのできぬ自分にうんざりした。

そしてガラス窓に映った僕の顔をじっと眺めてみた。(略)でもそれはまったく僕の顔には見えなかった。通勤電車の向いの席にたまたま座った24歳の男の顔だった。僕の顔も僕の心も、誰にとっても意味の無い亡骸にすぎなかった。(略)

3歩ばかり歩けばみんな忘れてしまう。彼らの目は何も見てなんかいないのだ。そして僕の目も。僕は空っぽになってしまったような気がした。もう誰にも何も与えることはできないのかもしれない。

「ねえ、ジェイ」

と鼠はグラスを眺めたまま言った。「俺は二十五年生きてきて、何ひとつ身につけなかったような気がするんだ」

「僕は不思議な星の下に生まれたんだ。つまりね、欲しいと思ったものは何でも必ず手に入れてきた。でも、何かを手に入れるたびに別の何かを踏みつけてきた。わかるかい?」

「少しね」

「誰も信じないけどこれは本当なんだ。三年ばかり前にそれに気づいた。そしてこう思った。もう何も欲しがるまいってね」

彼女は首を振った。「それで、一生そんな風にやってくつもり?」

「おそらくね。誰にも迷惑をかけずに済む」

「本当にそう思うんなら」と彼女は言った。「靴箱の中で生きればいいわ」

素敵な意見だった。

主人公の僕と友人の「鼠」を執拗に取り巻くこの虚無感は、この作品の中では昇華されないまま終わる。この虚無感を超克(という言葉はちょっと正しくない感じがするが)するためには、この先長い長い冒険があり、悪との対峙や大切な人の死が待ち受けている。滞留したような物語は、次作の『羊をめぐる冒険』から急激に変わって行くように感じられる。通底する虚無感は消えないけれど、それは熱くなったり冷たくなったりして、やがて少し優しいものに変わっていくかのような。でも、その為にはもっともっと長い物語が必要なのだ。

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