書評・小説 『ダンス・ダンス・ダンス』 村上 春樹 ①


村上春樹長編小説をもう一度読んでみようシリーズ。『ダンス・ダンス・ダンス』は、記憶の中では一番面白かった長編だった。久しぶりに読んでみて印象が変わったところもあったけれど、やっぱり面白かった。最近の村上春樹の長編小説と違うなあ、と一番感じたところは、時代への風刺とかアンチテーゼがもっともっと効いていた、ところだ。作者特有のユーモアも、若さ故なのか、時代なのか、その両方だと思うが、今よりもずっと辛辣でピリッとしている。

バブル最末期の風潮を受けて、高度資本主義社会への揶揄がたくさん出てくる。溢れるデータ、情報、とりとめのない欲望と消費、人々と物事が通り過ぎていくような、ゲームのような世界、リセットボタンを押すだけの感覚、物語自体が、そういう「もうこれ以上どこにも行くところのない日本」へのアンチテーゼになっている。村上春樹特有の軽やかさや虚無感に満ちている一方で、まだ、ここには著者の若い憤りが感じられるのだ。

我々は高度資本主義社会に生きているのだ。そこでは無駄遣いが最大の美徳なのだ。政治家はそれを内需の洗練化と呼ぶ。僕はそれを無意味な無駄遣いと呼ぶ。考え方の違いだ。でもたとえ考え方に相違があるにせよ、それがとにかく我々の生きている社会なのだ。それが気にいらなければ、バングラデシュかスーダンに行くしかない。

「僕らの住んでるのはそういう世界なんだ。港区と欧州車とロレックスを手に入れれば一流だと思われる。下らないことだ。何の意味もない。要するにね、僕が言いたいのは、必要というものはそういう風にして人為的に作り出されるということだ。自然に生まれるものではない。でっちあげられるんだ。誰も必要としていないものが、必要な物としての幻想を与えられるんだ。簡単だよ。情報をどんどん作っていきゃあいいんだ。住むんなら港区です、車ならBMWです、時計ならロレックスです、ってね。何度も何度も反復して情報を与えるんだ。そうすりゃみんな頭から信じこんじまう。住むんなら港区、車はBMW、時計はロレックスってね。ある種の人間はそういうものを手に入れることで差異化が達成されると思ってるんだ。みんなとは違うと思うのさ。そうすることによって結局みんなと同じになってることに気が付かないんだ。想像力というものが不足しているんだ。

この「軽やかさを装いながら、まだ心のどこかで本気で憤っている」というところが、この小説を生き生きと面白くしているところなのかもしれない。それが、全編に散りばめられた、シニカルな、時にブラックなユーモアがピリリと効いてくる所以だろう。

何度も出てくる「経費」をめぐるユーモアについては、いかにもバブル的で思わず吹き出してしまう。取り調べの刑事二人のうち、マッチョな方を「漁師」、《同人誌の集まりで額の髪をかきあげて「やはり三島だよ」と言ったりしそうな雰囲気がある》方を「文学」と名付けるのも笑える。《漁師はセブン・スターを吸い、文学はショート・ホープを吸った。二人ともチェーン・スモーキングに近かった。彼らは「ブルータス」なんか読まないのだ。全然トレンディーじゃない人たちなのだ》なんて言うところは、漁師と文学とブルータスをまとめておちょくっている。

くだらないティーンエイジャー向けの映画を観て、高校生や中学生が《野犬収容所みたいな騒ぎ》をしているところで《映画館ごと焼き払ったらさっぱりするだろうなとふと思ったりした》とか、ディズニーランドについて《ああいうソフトでやわでわざとらしくて子供向きで商業主義的でミッキーマウス的なところは嫌なんだね?》とか、今だったら大炎上してしまいそうなユーモアが満載だ。『騎士団長殺し』で、スターバックスを揶揄しているようなやんわりさとは大違い。こういう辛辣さが、最近の村上春樹の作品から消えてしまったのは実に残念なことで、それは著者自身のせいでもあるかもしれないが、それ以上に時代がそうさせているところもあると思う。日本人は、30年も前に村上春樹が揶揄していたものを、結局超克もできないまま、新たな格差や欺瞞を抱え込んで、悶々としているのか。

と言うわけで、やっぱり私はこの作品の突出したシニカルさというか、風刺的なところが好きなのだが、他の村上春樹長編小説と共通する部分もたくさんある。まず、今回は主人公の僕の親友にもなり得そうな人物が「絶対悪」を体現している。村上春樹作品によくあるように、「絶対悪」はエレガントな男性の姿をしている。『海辺のカフカ』『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』でも触れた、彼岸的世界も、その世界との触媒役を果たすような美少女、も出てくる。主人公はいつも世間から少し距離を置いた風変わりで身軽な男性で、そこには「軽やかさ」と「公平さ」という一貫したテーマがある。

特に、「公平さ」というのは、この作品で何度か出てくるフレーズで、主人公が、ひいては作者が、常に世界と客観的な距離を置いて接しようとする姿勢と、結局、それは幻でしかないという虚無感や諦め、みたいなものが伝わってきて興味深い。

そういう風に彼女と寝るのはフェアじゃないんじゃないかという思いが、頭の隅からどうしても去らなかった。彼女は僕より十歳年下で、どことなく不安定で、おまけにかなり酔っぱらって足がよろけていた。そんなのはしるしのついたカードでトランプ・ゲームをしているみたいなものだった。フェアじゃない。

でもセックスの領域でフェアネスというものがどれだけの意味を持つのか、と僕は自問してみた。セックスに公正さを求めるんならどうしていっそのことミドリゴケにでもならないんだ、その方が話が早いじゃないか、と僕は思った。

「ゆっくりとしかるべき時が来るのを待てばいいんだ。何かを無理に変えようとせずに、物事が流れていく方向を見ればいいんだ。そして公平な目で物を見ようと努めればいいんだ。そうすればどうすればいいのかが自然に理解できる。でもみんな忙しすぎる。才能がありすぎて、やるべきことが多すぎる。公平さについて真剣に考えるには自分に対する興味が大きすぎる。

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