書評・小説 『すべて真夜中の恋人たち』 川上 未映子


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川上未映子は、『乳と卵』の一冊を読んだきりだけど、妙に印象に残っていた。この本は、なんとなくタイトルに惹かれて読み始めたのだけれど、やっぱり形容しがたい、でもすごくビビッドな印象が残る小説で、だからこそ感想を文字に起こして書くのが難しい。

冬子と聖という対照的な女性が2人登場するのだけれど、そのどちらもが生々しくリアルに描かれていて、同じ女としての嫌悪感でいっぱいになる。タイプ的には、同級生の男子からレイプまがいのことをされたり、昼間から魔法瓶に冷酒を入れて持ち歩くほどのアル中になっても自覚がないくらいぼんやりとして消極的な冬子よりも、上役に率直に物申したり同性から嫌われても自由奔放に振る舞うのもやめない積極的な聖の方が、共感がもてる。でも、だからこそ、聖という女の持つ嫌らしさが痛烈に感じられて、嫌で嫌で仕方がないのだ。

聖の振りかざす正論。冬子に一方的に自分のお古や香水を送りつけてきて微妙に影響力を行使しようとするその厚かましさ。

「ひと言で言うと、あなたみたいな人はああいうタイプの人に、自分を正当化するための道具にされちゃうのね。彼女みたいな人は自分の生きかたや考えかたをまわりの人に認めさせるだけじゃ満足できなくて、それを日々強化しつづけないと気が済まない人なのよ。(略)だからね、石川さんはスポンジみたいにものを言わない、ただ黙って色々と吸いとってくれる人をうまく使って自分のある部分を補強しつづけているの。彼女はそういう種類の人間の典型で、単に自分の立派な理想とか考えかたを人にきかせることによって、それを日々逞しくして、悦に入ってるのよ。でもみんなもそんなのに付き合ってられないじゃない。忙しいんだし、いい大人男だし。石川さんの野心とか都合とか、そんなの知らないし。だからみんな離れて行っちゃうのよね。」

彼女と仕事仲間である「恭子さん」の言葉は意地悪過ぎるように聞こえるが、ラストシーンではその意味が分かってくる。自分の思い通りにならないと分かるや、聖が冬子に一方的にぶつけてくる不条理な怒りと底意地の悪さは凄まじく、ああ分かるなあ、こういう女、、、という思いで吐き気がして、本を投げ捨てたくなった。

冬子のようなうじうじした女も大嫌いだが、聖のような一見潔いような厚かましい嫌らしさをもつ女は反吐が出る。結局、友達のフリして親切を施しているような気持ちでいる聖も、微妙に妬みと意地の悪さが混じった<忠告>をしてみせる恭子さんも、なんなら、15年ぶりの再会で「もうわたしの人生の登場人物じゃないから」と一方的に自分の夫婦生活の不満や不倫話を打ち明けてくる高校時代の友達の典子も、ある意味で冬子のことを馬鹿にしてるんだよね、と思う。他人をすり減らして自意識の為に使っているようなこの感じ。ああ嫌だ嫌だ。嫌だ、と思うのは、自分に思い当たる節があるからに他ならない。

女として嫌な、汚いところをえぐってくるなあ、という意味では、『乳と卵』の生理の血で汚れた下着を洗うシーンを思い出した。夜中に、経血のついてしまった下着を流しで洗う、その様子を事細かに描写していた。このシーンを読んだ時には、「分かるよ、分かるけど、何もこれをわざわざ描かなくても、、、」という気持ちが溢れてきて強烈に印象に残っている。汚いけどリアル。同じ女として目を背けたくなるほどにリアルなのだ。

川上未映子の本を読んで不思議なのは、こういう女の汚いところを余すところなく描いて、なお、読んだ後に「ああ、汚いもの見せられた」という気持ちにはならないところだ。見ちゃったけど、どこか爽快、というのか、それとも、リアルなはずなのに、どこか長い映画を見ていたような非現実感がある、というのか。汚れたものを汚れたまま描ききって、そのまま汚れた世界に放り出されてみたら、なんだかちょっと綺麗なものが残りました、みたいな。詩人なんだよなあ、とつくづく思う。言葉の選び方と、物語の流れ方で、汚いはずのものが、なんだか全然違う風に伝わってくるものなのだ。

正直、生理的にはちょっと苦手な作家さんなんだけど、また忘れた頃になんとなく手にとってしまうであろう自分を予想できてしまう。なかなかに曲者な作家さんである。

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