書評 『女ぎらい ニッポンのミソジニー』 上野千鶴子


『女ぎらい ニッポンのミソジニー』をお得に読む

チェ・ナジュム『82年生まれ、キム・ジヨン』レティシア・コロンバニの『三つ編み』マーガレット・アトウッドの『侍女の物語』、、、現代文学を考える上で、フェミニズムは避けて通れない問題である。正直ずっと避けてきた私だが、そろそろこういった本も読んでみようかと重い腰を上げた。

上野千鶴子氏のお名前は、もちろん大学在学中から知っていた。当時、『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』が大学の生協に平積みされていたのを思い出す。と言っても、私自身はその頃はとんとフェミニズムには関心無く、実際に上野千鶴子氏の著作を読んでみたのは、就職して結婚して子供を産んで、という体験を経てからのことだった。

本書は、日本における「ミソジニー」つまり、「女嫌い」「女性蔑視」を、様々な角度から検証している。本書の核となる「ミソジニー」についての基本的な考え方は、著者によるとこうだ。

奥本は女好きの男のミソジニーをすばり指摘するが、その謎を解くなら、男性として性的主体化をとげるためには女という他者に依存しなければならないという背理に、かれらが敏感だからだ、と言うべきだろうか。べつの言い方をすれば、自分を性的に男と証明しなければならないそのたびに、女というおぞましい、汚らわしい、理解を超えた生きものにその欲望の充足を依存せざるをえないことに対する、男の怨嗟と怒りーが女性嫌悪である、と。

ホモソーシャリティは、ミソジニーによって成り立ち、ホモフォビアによって維持されるーここまでは、セジウィックがその卓抜な論理で、わたしたちに教えてくれたことである。

以上をカタカナことばではなく、平明な日本語で言えばこうなるー男と認めあった者たちの連隊は、男になりそこねた男と女とを排除し、差別することで成り立っている。ホモソーシャリティが女を差別するだけでなく、境界線の管理とたえまない排除を必要とすることは、男であることがどれほど脆弱な基盤の上に成り立っているかを逆に証明するだろう。

セジウィックはミソジニーとホモフォビアとを、ホモソーシャリティを成り立たせる一組の契機とした。ホモソーシャルな集団の一員になる、すなわち自分が男であると他の男たちに認めてもらうためには、自分が「女ではない」ことを証明しなければならない。なぜなら欠性対立(privatize opposition)によって成り立った「標準」としての男性性は、ただ有標化(marked)された「女性性」の欠如によってしか、定義されないからだ。男を男として認めるのは男であり、女ではない。

「女のようではない」ことを証明するには、女を所有することで女の支配者の位置に立つ必要がある。したがって「女を所有(モノ)にする」ことで男は「男になる」。この関係は非対称的なものであり、逆転してはならない。(略)

したがって同性愛者の男は「女性化された男(feminized man)」の記号となる。しかも同性愛者の男がホモソーシャルな集団に混入していることは、その男の性的欲望によって対象化されること、言いかえれば「女性化」される危険をつねにはらむことになる。男が「男であること」から転落する危険は排除されなければならない。だからこそ、男性集団のあいだでホモフォビアは厳格なルールとなる。

そして、「女好き男」「聖女と娼婦という二重基準」「非モテ」「皇室」「春画」「母子関係」「女子校文化」「東電OL事件」「結婚制度」といった様々な角度からミソジニーを分析している。秋葉原事件、東電OL事件、あるいはセクハラ、#ME TOO現象など、社会的問題での分析はもちろん、吉行淳之介、酒井順子や中村うさぎ、林真理子、そして春画や皇室の起源とされる古事記など、文化的表象面での分析も充実していて面白い。

全体としてはなるほど、と思うことが多いのだが、それでも読んでいる間、絶えずなんとなく違和感がある。何か、全面的に素直には受け取れないような、敢えて「でも」と反論を試みたくなるような。もちろん、一番の原因は、フェミニズム問題が、誰にとっても当事者問題で、客観的に取り扱うのが難しい(というより無理だ)ということだろう。女はもちろん、男にとっても。事実、あとがきで、著者は《書き手にとってと同様、本書は多くの読者にとって、女にとっても男にとってもーとりわけ男にとってー不愉快な読書体体験をもたらすだろう》と開口一番語っている。

《不愉快な思いをして書き継ぎ、不愉快な思いをして読まなければならない本を書いたのはなぜか?どんなに不快であれ、そこから目をそむけてはならない現実がそこにはあるからだ》と著者は言い、《社会学者という職業を、ときどき因業と思うことがある》と言う。私が感じている違和感は、フェミニズムを学問とすることの因果というのか、無理というのか、そういうところにもあるような気がするのだ。

学問であるフェミニズムはまず定義をはっきりさせなければならない。「女=男でないもの」と。最低限必要な定義が明確な二項対立でなされる訳だ。でも、当たり前だけれど、その二項対立を私たちは現実社会の中ではそこまではっきり区別できない。「男の特性」や「女の特性」が、そもそも社会的なジェンダーでバイアスをかけられている時、女性学の学問の中で「男たち」「女たち」と呼ばれる人たちは一体誰なのか、ということ自体も揺らいでくる。私のように、小さな息子がいる「女たち」は、このホモソーシャリティの入り口にいて、「男たちの価値観」に染まっていく前の生き物を、いつから「男たち」と呼べばいいのか?と戸惑うだろう。それに、私たちは歴史的に「男たちの価値観」に縛られているから、「女たちの価値観」というものをどう捉えていいか分からない。

だから、例えば、著者が、非モテ男子の幻想を糾弾する口調に、「伝統的な価値観に縛られて苦しんでいるのは男も同じ。同じように価値観に縛られたせいで現実社会に適応できず失敗しても、女性だけが犠牲者なのか?」といった違和感を感じたり、「女子校文化」というものを好意的に評価しようとしても、「それって、対象者を女だけに限定した仮想社会に、男の価値観をスライドさせているだけなんじゃないか?」という疑問を感じたりしてしまう。

要は堂々巡りなのだ。便宜的に二項対立で分析してみても、問題指摘はできるが、現実的な解決策を提示することはひどく難しい。「問題があるのは分かった、で、結局どうしたらいい?」と言われてしまうと、黙るしかない。極論すれば、「男と女の差異が全くない人間たちの世界」を究極の理想とするしかないのかもしれないが、残念ながら、多くの人間はその世界を魅力的には感じられないだろう。人間は、平等を求めながら同時に差別を求めるものだし、人間は自分とは違うものだから魅力を感じたり惹きつけられたりするのだから。

もちろん、だからと言ってフェミニズムを学問とすることに意味がない、とか価値がない、とか言っているのではない。学問とはえてして、こういうものだからだ。ある一定の方法論に基づいて社会や事象を分析して説明する。例外は許されず、全てが対象になる。心を動かされた芸術や文学作品はもちろん、自分の家庭や人間関係や生き方に至るまで。

前に引用したセジウィックのホモソーシャル、ホモフォビア、ミソジニーの三点セットの概念について、著者はこう言っている。《概念は概念であって現実ではない。だが、概念は現実を説明し解釈する強大な武器になる》概念でしかないもので、誰もが肉薄する現実社会を解剖されたら、それは確かに不快なものに感じられるだろう。それを承知した上で、《学問は何の役に立つのかと言われ、理論は机上の空論と言われながら、女の経験の言語化と理論家に努めてきたのが女性学・ジェンダー研究》であり、不快さと違和感に責められながらも、その本を読む意義なのだ。やはり《因業》な学問ではある。

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