書評 『サロンの思想史 デカルトから啓蒙思想へ』 赤木昭三・赤木富美子 ②


後半から、やっと具体的なサロンの記述に入る。サロンの定義として冒頭に、ハイデン・リンシュ『ヨーロッパのサロン 消滅した女性文化の頂点』で弓削尚子氏の訳を引用している。また、サロン女主人の紹介が、ランブイエ侯爵夫人から始まるあたりは、川田靖子『十七世紀フランスのサロン サロン文化を彩る七人の女主人公たち』と同じである。

その後に続く名前も、上記の2冊及び菊森英夫『文芸サロン その多彩な女主人公たち』でお馴染みだ。プレシューズとして揶揄されながらも、貴族ではない出自でサロン主になると同時に、自身でも物書きとして活躍する成果を挙げたスキュデリー夫人。フォントネルやモンテスキューなどが通い、「アカデミー・フランセーズに到達するには彼女のところを通らねばならない」とエノー院長に言わしめたランベール夫人に至っては、町人という新興階級の出身である。そして、ダランベールの無慈悲な母親にして華麗な女主人であるタンサン夫人については別の記事でも個別に書いたが、フランスだけでなく、ヨーロッパ中にそのサロンの高名が知れ渡った。。続くジョフラン夫人は、うら若きポーランドの青年を庇護し、彼女を「ママン」と呼ぶ彼、スタニスラス・オーギュスト・ポニアトウスキが、ロシアのエカテリーナ2世の支援によりポーランド王になったことが、彼女の名前をさらに高からしめた。ダランベールを庇護したデュ・デファン夫人に至っては、はっきりと立身出世の手段としてサロンを「経営」していた感がある。

実際、サロンの歴史は、女性の権力向上と立身出世の手段というフェミニズム史観とは切っても切り離せない関係にある。著者の赤木富美子氏はフェミニズム問題に詳しいし、そういう意味では、この本のサロン史も、ハイデン・リンシュの『ヨーロッパのサロン』と同じ系譜にあると言えるだろう。この主にフェミニズム的観点からサロンを評価する、という傾向は、ハイデン・リンシュの研究から連なる昨今のトレンドであり、それ以前に考えられていた「啓蒙思想の普及に大きな力を発揮した文化的意義のあるサロン像」への反動とも言えるかもしれない。

十八世紀の社会においてはサロンはきわめて大きい地位を占めていた。そして一方、大多数の啓蒙思想家はさまざまなサロンの常連であった。したがってサロンが啓蒙思想の普及に大きな力があったと推測するのは当然で、まったく自然なことだったと思われる。しかしサロンと啓蒙思想を安易に結びつけるこのような通説に、著名な文学史家のアントワーヌ・アダンは疑問を投げかけ、さまざまな証拠にもとづいて、少なくとも十八世紀前半においては、サロンは啓蒙思想の普及、深化にたいして、一般にいわれるほどには寄与していないと主張した。

P186〜187

要は、サロンに啓蒙思想家達が集まっていたのは事実だけれど、サロンの中で、貴族や王制度を根本から揺るがすような深刻な政治的・社会的・哲学的議論がなされていたわけではない、そのような活発な議論は、むしろ、貴族勢力から離れたカフェや私的サークルで行われていた、ということだ。フランス革命の精神的バックボーンともなった百科全書派達の思想と行動について纏めた寺田元一著『編集知の世紀』でも、同じような主張が見られる。

確かに、最初ダランベールを庇護しながら、彼の論調が過激さを増すと共に彼を排斥しようとしたデュ・デファン夫人の行動を見ても分かる通り、貴族的な経済的優位性と価値観を元にしたサロンが、やがては革命の温床になるような啓蒙思想や自由主義を育て続ける、というのには一種の矛盾があり限界がある。サロンの女主人達が、自己の出世や保身を狙い、目新しい思想や知識を巧みに宣伝し利用した、という側面は確かにあるだろう。ただ、サロンがフィロゾフ達を利用していたように、フィロゾフ達もサロンを利用していたのではないか。始めは経済的な庇護や既存の社会の枠組みの中での後ろ盾或いは隠れ蓑として、やがては、もっと直接的な援助や関与を得ることで。

本書でも、《アダンの見解は、安易で大雑把な通説、俗説を鵜呑みにして、それを無批判に受け入れる態度を批判し》たものであるとしながら、《アダンの批判をふまえたうえで、彼のこのような否定的な見解にもかかわらず、十八世紀前半のサロンが啓蒙思想の広がりに果たした役割にはやはり相当なものが有った》としている。

そもそも、『十七世紀フランスのサロン』の記事でも触れた通り、サロンの語源は「小さな寝室」を意味する言葉で、社会的アウトサイダーである女性が客人をもてなす超プライベート空間が始まりなのである。それはもちろん、男性王とその男性家臣が君臨する宮廷というパブリックスペースの対照として設置されたものであり、そこでこそ、当時はアンダーグラウンドな文化が醸成され得たのである。例え貴族であったとしても、サロン主人は「女性」というアウトサイダーであり、このアウトサイダーがもっと下層のアウトサイダーを庇護したことの功績は小さくはないはずだ。そして、そのサロン主人達が、上流貴族から、次第に新興階級出身へと移っていき、自身で文筆活動や研究を行なったり、或いはフィロゾフ達に対して、庇護という一方通行の関係だったものが、レスピナス嬢やデュ・シャトレ夫人の様に愛人関係へと変わっていくこと自体に、サロンの影響力の変遷がよく現れている。

本書でも、啓蒙思想の発展に大きな影響力を持ったサロン主として、最後にヴォルテールの愛人としても有名なデュ・シャトレ夫人の名を挙げているので、紹介しておく。彼女は、宮中の要職にあった父親が59歳の時に生まれた秘蔵っ子で、修道院ではなく、チュイルリーの庭を臨む豪奢な屋敷の中で、広い図書室の豊富な蔵書や何人もの家庭教師に囲まれて育つという、きわめて恵まれた環境で幼少時代を過ごし、ラテン語はもちろんイタリア語や英語も操ったという。逮捕直前のヴォルテールをロレーヌ州のシレーの館に匿い、十年以上の長きにわたり彼と共同で研究を進めた中身は、

(1)まずヴォルテールの草稿『形而上学論』となって残った哲学や道徳についての思索、およびこれに密接にかかわるものとして、デュ・シャトレ夫人によるマンデヴィルの『蜂の寓話』の翻訳。

(2)聖書の批判研究で、現在トロワの市立図書館にある長大な未刊の写本作品『聖書の検討』として残ったもの、およびこれに関連する仕事として、最近発見されたウルストンの『われらの主の奇蹟についての六つの講和』の翻訳。

(3)彼女の業績としてはもっとも重要な『物理学教本』その他、物理学関係のさまざまな著作や論文、およびニュートンの主著『自然哲学の数学的諸原理(プリンピキア)』の全訳とこれに付け加えた詳細な注解

(4)そして最後に『幸福論』

彼女の卓越した語学力と科学的知識は、ただ単に愛人ヴォルテールの思想面を支えたというだけでは足りない、奥深さと広大さを持っていると言えるだろう。

しかし科学、哲学の分野でこれほどの業績をあげたひとはデュ・シャトレ夫人のほかになく、彼女以後も二十世紀までは彼女と比肩しうるほど質量ともにすぐれた仕事を残した女性は出現しなかった。そこで彼女を二十世紀はじめのキュリー夫人と並べて挙げる批評家もいるほどだ。

この偉大な知性と功績に対し、ヴォルテールとの恋路や晩年の彼女の有様・・・ヴォルテールとの仲違いから軽薄な詩人サン・ランベールとの恋に走り、不義の子を身篭った後は世間体を繕うために夫の侯爵を呼び返して、生まれてくるはずのこの父だと思いこまそうとした、そして、その出産と共にあっけなく息を引き取った・・ばかりが脚光を浴びてきたのは至極残念だが、それもまた、フェミニストの格好の標的となりそうな事例である。本書の最後を飾る「アンチ・サロンの思想」として名前を挙げられたジャン・ジャック・ルソーが、彼の恋愛関係や素行から、著作についての評価を枉げられることは少ないのだから。

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