タンサン夫人


クロディーヌ=アレクサンドリーヌ・ゲラン・ド・タンサン(1682〜1749)は、18世紀フランスで最も有名なサロンを開いた。ダランベールの生みの母としても有名だが、若い頃に砲兵隊将校デトゥシとの短い情事で赤子を授かった彼女は、生後まもなく、その子をパリのサン・ジャン・ル・ロン教会の階段に置き去りにした。間もなく経済的な面倒は見るようになったらしいが、それでも彼女は死ぬまでダランベールを自分の子供とは認めず、ダランベールもまた、生みの母の心無い仕打ちを決して許さず、育ての親であるガラス職人の名前を名乗ったという。

彼女が関係を持った男性は20名とも30名とも噂され、オルレアン公フィリップや宰相デュボア枢機卿まで含む最上位の身分の男たちであった。後に枢機卿となる兄のタンサン神父と共に、その交流関係をバネにのし上がった。

彼女は、野心的で殺人犯、ギャンブル狂のスコットランド人ジョン・ローがフランスにやって来ると、彼を庇護して、摂政に推薦した。後に、ジョン・ローは、紙幣を発行する国営銀行と植民地の独占的な貿易権をもつ会社とを合体させて、いわゆるミシシッピ・バブルを創出し、それを破綻させ、フランス王家の財政に最後のトドメを与えて革命の口火を切ることになる。彼女自身は、移り気な性格が幸いしてか、バブルが弾けジョン・ローが糾弾される頃には、とっくに彼を見放しており、致命的な難を免れたらしい。

タンサン夫人のサロンには、多くの啓蒙学者たちが参加した。そこには、マリヴォー、モンテスキュー、エミリ・デュ・シャトレといった錚々たるメンバーに加え、唯物論的な快楽主義の哲学を提唱したエルヴェシウス、共産主義の先駆者たるマーブリなど、急進的な哲学者たちの名前も見られる。

タンサン夫人のサロンは、思想や哲学の分野においてのみ前衛的だったわけでない。サロンは、政治的な力ももっていた。そこには、フランス人権力者だけでなく、イギリスの政治家たち、チェスターフィールド、ボーリングブルック、ブライアーなども参加し、<ヨーロッパのサロン>と呼ばれていたという。ルイ14世の庇護を受けた彼女は、ジャンヌ=アントワネット・ポワソン、のちのルイ15世寵姫ポンパドゥール夫人の、洗礼代母にも指名された。若きポンパドゥール夫人は、彼女のサロンに出入りし、その智慧を磨いたと言う。

<参考>

  1. 『ヨーロッパのサロン 消滅した女性文化の頂点』 ヴェレーナ・フォン・デア・ハイデン=リンシュ(法政大学出版局)
  2. 『ヨーロッパの乳房』 澁澤 龍彦(河出文庫) →こちら
  3. Wikipedia 「Claudine Guerin de Tencin」(English)→こちら
  4. 『マネーの進化史』 ニーアル・ファーガソン (早川書房)
  5. 『文芸サロン その多彩なヒロインたち』 菊盛 英夫 (中公新書)

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