書評・小説 『ヴェニスに死す』 トオマス・マン


世界中に突如新型コロナ・ウイルスの嵐が吹き荒れ、疫病の脅威を思い知った2020年2月。老作家が美少年への愛のうちにコレラに罹って退廃のヴェニスで死を遂げるという結末のこの本を手にとったのは全くの偶然で、先日読んだギルバート・アデアの『ラブ&デス』が、この作品のみごとなパロディであったことに興味を惹かれたに過ぎない。また、最近読んだ平野啓一郎の『マチネの終わり』でも、この作品が繰り返し言及されていて気になっていた。

『魔の山』では挫折した私も、こちらの方はごく短い作品なので、ずっと以前に読んだことがある。ただ、あまり印象に残ってはいない。と言うよりも、現代のほとんどの日本人がそうであるように、映画作品のインパクトが強過ぎて、原作の方が霞んでしまっている、というのが本音である。私は、文学作品の消化の方が、映画作品のそれより圧倒的に多いので、九割方、原作の文学作品→映画作品、という順番になるのだが、この作品だけは映画作品→原作という順番となったレアケースである。

それぐらい、もはや原作よりも映画の方が有名になってしまった作品だ。日本で、『ヴェニスに死す』を検索しても、出てくるのは映画の記事ばかりである。折しも、前年(2019年)には、映画『ヴェニスに死す』で伝説の美少年タッジオ役を演じたビョルン・アンドレセンが、問題作『ミッド・サマー』に老人役で出演したことも話題となった。なんと言っても、映画『ヴェニスに死す』の魅力の半分位は、このビョルン・アンドレセンの美しさにあると言っても過言ではないのではないか。それくらい、少年タッジオの美しさは観る者を圧倒する。

私は、高校生の頃に初めて観たのだが、やっぱり衝撃を受けた。ヴェニスの退廃、めくるめくような映像と音楽に浸る時間。主人公アッシェンバッハの偏執的な愛情と情熱と老醜。そして、それらと調和し、あるいは厳然とした対比を見せながら輝いているタッジオの美しさ。ルキノ・ヴィスコンティの演出とビョルン・アンドルセンの美しさが見事過ぎて、『ヴェニスに死す』と言えば、美少年、同性愛、退廃的美、といったイメージばかりが先行してしまっている、とも言えるかもしれない。

しかし、今回、原作を改めて読み直してみて、小説の方は、美少年への退廃的な愛、というだけでなく、(いや、むしろ、そういう要素はかなり薄くて)、芸術家としての葛藤とか、二律背反的なものの希求とか、西洋哲学的要素の濃い作品なのだ、と感じた。冒頭の、主人公アッシェンバッハの芸術家としての半生を語った部分に、ほぼこの作品のエッセンスが凝縮されていると言えよう。

しかし知識のかなた、分解し阻止する認識のかなたにある、道徳的果断というものーそれはふたたび、世界とたましいとの単純化を、道徳的簡易化を、したがって同時に、悪へ、禁断のものへ、道徳的に不可能なものへの強化を意味してはいないだろうか。そして形態というものは、二種の相貌をもってはいないだろうか。それは道徳的であると同時に非道徳ではなかろうか。ーたんれんの成果及び表現としては道徳的だけれど、元来一つの道徳的無関心を包含しているかぎり、いや、道徳的なものを、その堂々たる先生的な支配のもとに屈せしめようと、特に努力しているかぎり、非道徳的であり、半道徳的でさえもあるのではなかろうか。

エロスと芸術、そして道徳と背徳の二律背反的な関係。根底にはギリシア哲学の考えがあり、プラトンの『ファイドロス』が引用される。

なぜなら美というものは、わたしのファイドロスよ、ただ一つ愛に値すると同時に、目に見えるものなのだ。よくおぼえておくがいい。美とは、われわれが感覚的に受けとりエル、感覚的にたえ得る、精神的なものの唯一の形態なのだ。(略)だから美は、感じる者が精神へゆく道なのだ。ーただ道にすぎない。ほんの手段なのだよ、小さいファイドロス。・・・それからかれは、このこうかつは求愛者は、最も微妙なことをのべた。つまり、愛する者は愛せられるよりも一層神に近い。なぜなら前者のなかには神があるが、後者のなかにはないからだーという、かつて考えられたうちでおそらく最もせんさいな、最も冷笑的な思想、愛慕のもつあらゆるずるさと最もひそかな歓楽との源泉となっている、あの思想をのべたのである。

また、物語の終盤、アッシェンバッハが死の直前に見る夢は、ディオニソス神話的イメージに満ちている。ディオニソス信仰がもつ死と狂乱と淫蕩の破壊的パワーについては、丹下和彦著『ギリシア悲劇 人間の深奥を見る』の「バッコスの信女」の章が参考になる。いずれにせよ、西洋哲学の素養が無いと読みこなすのが難しく、普通の日本人には中々ハードルの高い作品だなあ、と感じた。日本では、原作ではなく映画の方がはるかに有名なのも、肯ける。

それにしても、ルキノ・ヴィスコンティが、あまりに完璧に『ヴェニスに死す』を映画化してしまったので、トオマス・マンの原作からは、色々なものが削ぎ落とされてしまったとも言える。完璧な映画化というのは、原作に忠実ということとはイコールでない、むしろ、全くかけ離れたものを目指した方がいいのかもしれない。海野弘の『書斎の博物誌』では、「映画と文学」という章で、その関係性を語るのに、繰り返し『ヴェニスに死す』を引き合いに出している。

映像は、ことばのように文節化されていず、余分なものを巻きこんでいて、明確さを欠いているが、一挙に風景全体を与える直接性と、余分なもの、周辺的なものを含む豊さによって私たちを浸すのである。たとえば、映画『ベニスに死す』におけるリドの海水浴場や水浴ホテルのシーンを見ると私たちは、それらが、どのような空間的配置にあるか一挙に理解する。

『書斎の博物誌』 海野 弘

では、原作と映画は互いに独立していて、まったくちがうものなのだろうか。表現の変換にも関わらず、両者は多くのものを共有している。というより、二つの次元の表現によって、片方だけでは見えなかったものが見えてくる、といった方がいいだろうか。

原作のある映画を見る。すると、私たちは読んだことのある原作に新しい意味が与えられていることを発見する。そうすると、もう一度原作を読んでみたくなる。そして原作を読み直すと、映画もまた新しい意味を帯びてくる。そのような映画と文学の対話が成立する映画を私は見たいと思う。

『書斎の博物誌』 海野 弘

ギルバート・アデアの小説、『ラブ&デス』が、『ヴェニスに死す』のパロディであることは冒頭でも触れたが、このポストモダン的小説は、小説『ヴェニスに死す』の文脈と映画『ヴェニスに死す』の世界を自由自在に行ったり来たりしながら、なんともイメージ豊富なパロディを展開している。そしてまた、この小説『ラブ&デス』が映画化されていて・・・と、映画と文学の関係を考えるのに、こんなにうってつけの材料は他に無いかもしれない。実際、映画無しの純粋なトオマス・マンの『ヴェニスに死す』に触れてみたかった、という気持ちも無くは無いが、現代の私たちにとっては、ヴィスコンティの『ヴェニスに死す』無くしてトオマス・マンの『ヴェニスに死す』は語れまい。それはそれで、幸福な関係とも言えるのかもしれない。海野弘さんの次の文章が、的確に言い表している通りだ。

では、文学を映画化するのは不可能なのだろうか。そんなことはないだろう。見えないものとしての文学の彼方に見えるものとしての映画がある。私たちは、見えるものから見えないものへ、見えないものから見えるものへと旅立ちたいという衝動をいつも秘めているのだ。その境界をこえられるかどうかはわからない。それにもかかわらず、私はたちはプルーストの小説を読むだけでなく見たいと思うのであり、ヴィスコンティの映画を読みたいと夢想するのである。

『書斎の博物誌』 海野 弘

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