書評・小説 『彼女は頭が悪いから』 姫野カオルコ


『彼女は頭が悪いから』をお得に読むには

うーん、後味悪い。実際に起こった東大男子学生5人による女子大生への強制わいせつ事件を題材とし、上梓された2018年では、東大生協で最も売れた本だったという。それを東大出身でもあり、かつ女性でもある私が読むのだから、もちろん、爽やかな読書体験を期待していたわけではないのだが、、、まあ、読んでみたかったのだから仕方ない。しかし、今回は、書評、と題していますが、書評の要素は殆どなく、個人的な感想オンリーですのでお含みおきください。(いつもだろ、というご指摘もごもっとも)

この本がこれだけ話題になったのは、実際の事件ということもあるが、やはり「東大生」ということを全面に押し出したからだと思う。世間での東大ブランドの注目度を逆手にとったと言うべきか。そういう意味で、著者の狙いは当たっている。ただ、当たり前だが、この事件の、或いはこの小説の意味している問題点はもっと深いところにあって、東大は飽くまで象徴的に使われているに過ぎない。

事件を起こした5人(中でも主犯格のつばさ、譲治、國枝の3人)は、東大生の中でもかなり恵まれた選ばれし階級出身である。今流行りの言葉で言えば「上級国民」的要素が詰まっている。もちろん、東大生の中でも、半分は地方出身だし、都内有名校からも地道に努力して合格してきた者も多いから、「エリート東大生」と一括りにされても、多くの東大生は違和感を持ってしまうだろう。(たとえ、東大生の親の平均年収が世間一般から並外れて高く、彼らもまた恵まれた環境にあったとしても)

出版後には東大内でこの本のブックイベントが開かれ、司会を元アナウンサーの小島慶子が務め、作者の講演や東大教授らパネリストによるトークセッションが開かれたという。しかし、司会の小島慶子のイベント後の感想などを読むと、中々思うように議論は進まなかったと言うか、参加者の東大生からは「登場人物の東大生の描き方にリアリティがない」という意見が多く、その点に議論が集中してしまったようだ。まあ、そりゃあ、これだけ東大ブランドを全面に出されてしまうと、現役東大生からしたら、「自分は違う」「実際は違う」という自己保身というか言い訳感が先に立ってしまうよな、と納得である。もしかして、このトークイベントは早慶とか、他の有名大学でやった方が良かったのでは?と思ってしまった。東大ブランドは世間的にはセンセーショナルだが、実際、この小説が問題としている階級意識とか差別感というのは、東大限定にされる話ではない。

結局、東大ブランドに象徴されるような価値観、或いは、それを支えている階級社会的な構造というのは、東大以外のあらゆるところに見られる。事件を起こした5人の学生が堅く信じている「自分は東大生だから人より偉いのである」という価値観は、形を変えて色々なところに蔓延している。そもそも、この小説の中でも出てくるように、東大の中にも理系では理Ⅲ、文系では文Ⅰを頂点とする厳然たるヒエラルキーが存在する。(東大にあまり縁が無い方からすれば知ったこっちゃない、という感じであろうが)大半が東大出身である官僚や有名広告代理店や商社や金融機関だと、東大卒というのは大したブランドではなく、海外のどこの大学院で勉強したか、ということが重要になるような世界もある。当たり前だが、大学ブランドは東大だけでなく、早慶大や旧帝大などを含めて、当事者だけにしかよく分からない微妙なルールと価値観で形成されている。「学歴」だけが価値観ならことは簡単だが、世間に出れば、「一流企業」というブランドがあり、その「一流企業」の中も、当事者達でも混乱してしまうような、錯綜した価値観が支配している。頑張って東大に入学するよりも、エスカレーター式で有名私立大学に幼稚園や小学校から入れる社会的バッググラウンドを持っている方が「偉い」というような価値観だってある(実際、小説の中のつばさは慶應出身者に屈折した感情を持っている、と分析しているシーンがある)

挙げていくだけで不快感でいっぱいになってくるこの種の価値観、ヒエラルキーは、残念だが現実に存在している。私が「学歴」だけが価値観ならことは簡単だ、と言ったのは誇張ではなくて、学歴だけだったら、そのヒエラルキーを覆すのは正直簡単だからである。『学力の経済学』の記事でも言ったように、最終学歴の判定だけに使われるような現在の「学力」については、本人の頭の良さとは殆ど関係がない。必要な訓練を必要な時間をかけて行えば殆ど誰もがクリアできるのだから。その点だけを取れば、東大に入ったところで何も威張るところはない。問題は、「学歴」がその後の本人の「経済力」や或いはもっと厄介なことに出身の「階層」や「経済力」と密接に関わっていることだ。この小説で何度も指摘されている通り、選ばれた階層の者が選ばれた道を通って選ばれた大学に入ることは、そうでない者が入るより、ずっと簡単で自然で努力も能力もいらないことである。それなのに、最終的な「経済力」や「社会的影響力」という権力が付与されてしまう。もちろん、本人の努力や能力も全く反映されていないわけではない。ただ、どこまでが本人の努力や能力によるものなのか、その客観的判断は極めて難しい。なのに、確実にある種の権力は与えられる、というその構造。

著者は物語の中で何度も、加害者の東大生が「つるつるすべすべ」で無邪気なのを強調している。きっと、これが、実際に事件を取材して著者が感じた印象なのだろう。要は彼らは恐ろしく幼稚なのである。だから、複数の男性で一人の女性を無理やり裸にして、肛門に割り箸を刺したり、熱いラーメンをかけたりすることが、「単なる悪ふざけ」としか感じられない。ちょっとやり過ぎたかもしれないが、よくある「子供のいじめ」的なものだと。(そういえば、昨年問題になったどこかの先生同士のいじめにもよく似ている)東大生を雲の上の人のように感じている人には想像できないかもしれないが、それくらい精神的に幼くてレベルが低い人たちを、私も実際目にしてきた。

実際、私がこの小説を読んで一番意外だったのは、この事件の中にセクシュアリティの要素は極めて薄い、ことである。「わいせつ事件」という響き、その後のマスコミでの扱われ方からしても、もっとフェミニズムと関わりのある事件なのかと思っていた。だが、加害者の東大男子学生は、被害者のセクシュアリティだけを蹂躙したのではない。きっと、彼らにとっては、低学歴だったら男性であっても、或いは障害者であっても、あまり変わらなかったのではないかと思う。彼らに取っては女性ということはプラス(マイナスというべきか)アルファだったに過ぎない。彼らは、自分たちの作り上げたヒエラルキーの中で下位の者に対して、人間的尊厳を踏み躙る行為をして、示威行為をしたかったのだし、それは許されることだと思っているのだ。

もっと深いところを探って行けば、仮に本人の能力や努力でその力を得たとしても、それでもなお、人が人を見下すような、人の上に人をつくるようなヒエラルキーは容認されるべきなのか、という問題がある。加害者の一人、和久田が最後に呟く独り言にその問題が凝縮されている。

(刻苦勉励のストレスで精液が溜まるんだから、それを二次会Sで、相手合意の上で発散してきた。なにが悪いの、おれ?人類に必要とされてる人材なんだけど)

和久田は思っている。

(略)

缶コーヒーを飲みほすと、

「カスだな」

朝の森のように爽やかな声で和久田は呟いた。

(逮捕しにきた工業高校卒とかの警察官もカスだったが、いちばんカスは、通報したバカ女子大の女だ。あのバカ女。

公の場では口にしないけどさ、単細胞からヒトまで、頭が悪いやつ、身体が弱いやつは、弱者なんだ。弱者は淘汰されるんだ。弱肉強食なのが自然界なんだよ。なんでこの真実を覆い隠すわけ?これ真実でしょ。ナチュラルでしょ。

強者の余裕で、弱者をかばってあげるんだよ。上から目線?けっこうじゃない。ボランティア、慈善、福祉、みんな上から目線の賜物だろ)

和久田は思っている。

和久田の理論は「強者の理論」である。これはとても幼稚な理屈だが、それだけに論破するのは中々難しい。その事件の存在だけで生きているのが辛くなるくらい痛ましい、重度障害者施設での殺人事件「山ゆり園」事件が突きつけてくるのも、似た要素がある。人道的に、倫理的に「ノー」というのは簡単だが、なぜ「ノー」なのか、実際に「強者の理論」があらゆるところで幅を利かし、みんなが多かれ少なかれ部分的にそれに加担しているようなこの世の中で、それでも「それは正しくない」という理論的根拠はどこにあるのか。あったとしても、とても曖昧でフラジャイルなので、理論的思考力のみに磨きをかけてきた強者を納得させるのは極めて難しい。

長くなったが、この小説を読んだら、「東大」なんてつまらないところで足踏みしていないで、ここまで踏み込んで感じるべきだ、と思うのだ。「東大」はある意味特殊な場所でセンセーショナルかもしれないが、それはやっぱり表象に過ぎない。今の世界に広がる格差、それを支える「強者の理論」は現実だし、また、それに全く影響されない、加担しない者も多分いない。その中で、フラジャイルな自分だけの「正しさ」を問うというのは、非常にしんどいが、人間として忘れては行けない姿勢だと思う。

最後に、個人的に気になった点、もう一つだけ。私が「フェミニズム」的視点に注目し過ぎてるのかもしれないが、この小説での女性の描き方は少々気になった。特に、被害者の女性が、なんというか、天然無垢な、東大的打算とは無縁の女の子、として描かれているところだ。実際、著者にとって被害者の女性がそう映ったのかもしれないし、加害者との対照的なイメージを描く為にもそういう強調が必要だったのかもしれない。被害者への的外れな批判があまりに多かったので、彼女を庇う気持ちもあったかもしれない。ただ、「打算が全くない」=「被害者」という点は強調し過ぎると危険だよなあ、と思う。

この小説の中では、被害者の女子大生とは別に、加害者の東大男子学生に群がるたくさんの女子が出てくる。彼女たちは、かなりの「打算をもって」彼らに近づいてくる。加害者を庇うわけではないが、東大ブランドをちらつかせればこの手の女性が自然と群がってくる、という体験が、より彼らを傲慢に勘違いさせたことは否めない。被害者の女性に、明確な打算はなかったかもしれないが、出会ってすぐに体を許し、どんなひどい扱いをされても「白馬の王子様」だと信じて疑わない姿勢は、一途な恋心、だけでは説明できない、違った形で「東大ブランド」に目が眩まされている、と言われても仕方ないと思う。

で、問題は「打算がある」ことだけではない。たとえ、打算があったとしても、あの5人が被害者の女子大生にやったことは犯罪である。それははっきりしている。事件の前に彼らがやっていたように、打算があって近づいてきた女子大生の裸を盗撮したり、了承を得て裸を撮影したものを使ってお金を稼ぐようなことも、犯罪である。例え女性側に「打算があっても」ダメなのである。女性は、自らがそういう打算によって、差別意識に加担したり助長したりしている、ということを踏まえた上で、それでも「ノー」だと言わなければならない。その責任の重さを忘れてしまうと、話は一方通行になってしまって伝わらない。この小説を読んだ後の、女としてのモヤモヤ感を説明しようとすると、つまりそういうことなのである。

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