書評・小説 『デッドエンドの思い出』 よしもと ばなな


秋になると、このよしもとばななの短編集が読みたくなる。読書系SNSを見ていても、投稿している方が多い。表紙のデザインから伝わるように、深まる秋を舞台に切なくて心温まる物語が収録されている。実際には、物語の中で真冬だったり真夏だったりの季節も出て来るのだけれど、なぜか、秋の枯葉の印象が強く残る一冊なのである。

光が降り注いで、しかもそのあたりには他にはほとんど人がいなかったので、本当に雪景色か天国にいるような神聖な感じがした。私のすねまでを埋めるほどの枯葉は、いくら踏んでも減ることはなく、乾いた音を立てて舞った。

そして全てがその柔らかい葉の山の中にすうっと吸い込まれ、鳥の声や街の音がとても遠くに聞こえていた。

そうすると、いつしか最後の景色にたどりつく。もうどうやっても動かない、そのできごとの最後の景色だ。

そこまで行くと、もう空気も静かになり、全てが透明になり、なんだかこころもとない気持ちになってくる。でも感想は案外浮かんでこない。

すごくひとりだということを感じるだけだけれど、どこかでいつか誰かがやっぱり同じ気持ちでこの景色を見たのだということだけはわかるので、なんとなくひとりではないという気持ちにもなる。

でも、それがいいことかどうかは全然わからない。ただ見るだけだ。そして感じるだけ。

私は、「チェコ好きの日記」という読書ブログが好きで、結構参考にさせていただいているのだが、その「チェコ好き」さんがが、よしもとばななについてこんな風に語っている記事があって、なるほどなあ、と思った。

宗教なのか、スピリチュアルなのか、フロイトユング的な無意識の何かなのか、恋愛なのか、そういう微妙なバランスの上で成り立っていたところが吉本ばななの魅力だったのに、ある時期から吉本ばななは一気に”スピ”に移行してしまった。そして私はそのことにものすごい反発を覚えた。何が彼女をそうさせたのか、それによって彼女の文学から何が損なわれたのか、私はいろんな人と繰り返しこのことを話している。おしゃべりしていると燃えるテーマなのである。

『チェコ好きの日記』「経験が邪魔をする」

チェコ好きさんは、元々よしもとばななの小説が大好きだったらしい。私は、『スナックちどり』の記事でも書いた通り、一通り読んではいるが、すごく思い入れがある作家さんという訳ではないので、そこまで考えたことなかった。ただなんとなく、旅する文学シリーズが『まぼろしハワイ』や『なんくるない』を経て、そういう方向にどんどん向かっていく感じは分かる。別に毛嫌いするわけではないのに、だんだん彼女の作品を読まなくなったのも、そういうのが関係しているのかも知れない。

この『デッドエンドの思い出』は、まだ“スピ“に完全移行してしまう前の、<微妙なバランス>を程よく残した短編集だと思う。表題作もいいが、一番好きだったのは「おかあさーん」という短編で、死を間近に感じた主人公が、小さい頃自分を置いて蒸発してしまった母親との幸せなひとときの夢をい見るシーンでは、思わず泣けてしまった。

よしもとばななの小説が、ちょっと“スピ“系過ぎたり、少女趣味的だったり、甘過ぎたり、そう感じられるところは確かにある。それでも、改めて最近は「これくらいでもいいんじゃない」と思ったりもする。

流行りの現代作家さんの小説をたくさん読んでいるわけでもないけど、他人の悪意、一皮剥いたら暴かれるこの世の狂気、みんなが抱える心の貧しさと侘しさ、そういうのって、正直「ご馳走さま」って感じがしている。世界の暗部を闇を汚さを、これでもか、ってほじくり返してくるような小説が多い中で、よしもとばななさんの「物語」を読むと、心がホッとするのだ。言い方が難しいのだけれど、人の悪意とか敵意って、ものすごくスピーディに伝わるから、「物語」をあんまり必要としない。ネットに溢れるつぶやきやコメントや思いつくままに綴られた記事から、悪意や敵意はストレートに伝わってくる。ただでさえ擦り傷だらけの心に、さらに何度も瘡蓋をしつこく剥がして喜んでいるような「物語」を、私はもうあんまり読みたくない。一方で、微妙な心の機微とか、切なさとか、人情とかみたいなものを、細切れの情報から拾うのは難しい。温かさには「物語」が必要なのだ。どっちが世界の本質か、なんてことはこの際関係がない。

そんなことをぼんやり考えながら読み進めて言ったら、表題作のラストでこんな文章が出てきた。

家族とか、仕事とか、友達だとか、婚約者とかなんとかいうものは、自分に眠るそうした恐ろしいほうの色彩から自分を守るためにはりめぐらされた蜘蛛の巣のようなものなんだな、と思った。そのネットがたくさんあればあるほど、下に落ちなくてすむし、上手くすれば下があることなんて気づかないで一生を終えることだってできる。

全ての親が子どもに望むことって「できれば底の深さに気づかないでほしい」そういうことじゃないだろうか。だから、両親は今回のことを私以上に、大きくとらえているんだろう。私がここで大きく落ちて行かないように、かなり心配しているのだろう。

「底の深さ」に気づかなくて済むのが幸せな一生なのかは分からない。でもまあ、子どもに対してそう思ってしまう母親の気持ちはよく分かる。とどのつまり、底知れない闇が潜むこの世界で、一歩間違えば奈落に落ち、一皮剥けば狂気が暴かれるこの世の中で、そこに単なる偶然かも知れないけど、愛情や人情が迸るのを、虚しいと感じるのか、だからこそかけがえのない温かさだと感じるのかは紙一重なんだと思う。だからまあ、要は、みんな好きな方を選んだら良い、ということなんだけど。そして、私は、やっぱこっちの方が好きだよなあ、ということなんだけどね。

Follow me!


%d人のブロガーが「いいね」をつけました。