書評・小説 『ピアノ・レッスン』 アリス・マンロー


ノーベル文学賞作家アリス・マンローの処女短篇集。『善き女の愛』であまりにその作品の見事さに感動して、こちらも読んでみたくなった。『善き女の愛』と比べると、短篇の完成度と言う意味では荒削りで素朴な作品が多いが、やはり味わい深い作品ばかりだ。

読んでいて、とにかく「せつない」と思った。若い頃は、小説は長篇しか読まなくて、たまたま好きだった作家山田詠美さんが編集した『せつない話』という短編アンソロジーを読んで、初めて短篇ってこんなに面白いんだ、と知った。今でも大好きなアンソロジーである。マンローの『ピアノ・レッスン』を読んでいて、そのことを思い出した。それぞれの人間の、人生の、切り取られた一瞬から立ち上ってくるせつなさ。

巻末に訳者の小竹由美子さんのあとがきを読んで、なるほどと思った。

人間の心の奥底まで覗きこみ、それをそっくりそのまま、角度を変えればべつの光景が見えてくるような具合に描き出す手際も、一見さりげないのにひとつのプロットのなかにまたべつのプロットが包みこまれていて要約しようとしてもこぼれ落ちるもののほうが多いストーリーも、最初からのものだったことがわかる。

以前、フランク・コンロイの『マンハッタン物語』の記事で、《素晴らしい長編小説というものは、主人公だけでなく、出てくる登場人物全てが生き生きとしてて、なんていうか、ちゃんと各々が物語を或いはその余韻を感じさせてくれる》と書き、吉田修一の短編集『最後の息子』の記事では改めて《これはすばらしい長編小説だけにあてはまるのではなく、短編小説にも言える》と書いた。

主人公のめくるめくサクセスストーリーが一本だけ通っているのではなくて、そこに関わる人間達の無数の目に見えぬ物語が小宇宙のように広がっている。だって人生って、この世界って、そういうことだもんね、と思うのである。

視点、角度、プロット、それらを纏めてストーリーと言ってもいいかもしれない。色々なストーリーが複雑に交錯し、重層的に広がっているのが、多分、「せつなさ」を感じる理由なのだ。それは長篇とか短篇とか関係ないのかもしれない。なぜって、それが私たちの世界のあり方だから。登場人物に感情移入して物語を体感したり、鮮やかに印象的に切り取られた一瞬に強く心を打たれたり、それでもなお《こぼれ落ちるもののほうが多い》という現象。

もう一つ、『善き女の愛』の記事でも書いたが、彼女の作品の根底にあるフェミニズムも大きな魅力の一つである。本書でも、「乗せてくれてありがとう」「仕事場」「絵葉書」「赤いワンピースー1964年」など、女性ならではの葛藤や心の揺れが、繊細に描かれている。少女期の微妙な心理を描くのもうまくて、「海岸への旅」や「蝶の日」などの作品にもそれが表れている。中でも、私が一番好きだったのは、「男の子と女の子」だ。

訳者あとがきでは、マンローのインタビューが引用されている。

マンロー自身は「アトランティック」のインタビューで、フェミニスト作家と呼ばれることについてどう思いますかとという質問にこう答えている。「もちろん、私は女について書いていますーわたしは女ですから。もっぱら男のことを書く男の作家はどう呼ばれるんでしょうね。<フェミニスト>という言葉が何を意味するのかいつもちゃんとわかっているという自信はないですが。当初は、もちろんわたしはフェミニストよ、と言っていたものです。でも、ある種のフェミニズム理論を基盤としているとか、そういうことについて何か知識があるとかという意味なら、わたしはそうではありません。女たちの経験は重要だと考えているという点において自分はフェミニストだ、そう思っています。じつのところ、それがフェミニズムの基本なんです」

実に歯切れの良い納得のコメントである。女について書いている、女たちの経験は重要だと考えている、だけど、声高に権利を主張したり、立場を悲観したり、男を糾弾したり、というのとは少し違う。紛れもなく、「女であること」に肉薄しているはずなのに、彼女の重層的な人間像の中に一度紛れ込んでしまうと、「女であること」ですら、絶対的な意味のあることではないよう気がしてくるから不思議だ。

例えば、私が最も好きだった「男の子と女の子」という作品は、タイトルからしていかにもフェミニズムを感じさせるし、事実、メインストーリーはそうだ。それでも、栗色の雌馬フローラを逃してしまった後、男勝りの主人公の女の子が父親から「まあ、しょせん女の子だからな」と言葉をかけられた時、そして《わたしはその言葉に抗議しなかった。自分の心のなかでさえも。たぶん、そのとおりだったのだろう》と結ぶ時、読者の女性が感じるのはただの憤りや悔しさではない。「まあ、しょせん女の子だからな」と言われた主人公の姿、その向こうに、厳しい自然と生の動物を相手に仕事をしてきた父親や、強いお姉ちゃんの陰に隠れてまだ役立たずの鼻垂れ小僧である弟の姿が、彼らが背負ってきた或いはこれから背負っていくであろうストーリーが、うっすらと透けて見える。その瞬間、男の子と女の子、なんて問題は本当は重要なことでないような気もする。そうやって、読み手が「フェミニズム」で括った途端に《こぼれ落ちるものの方が多い》ことに気付かされるのだ。

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