あいも変わらずロングアイランド好きの私に、インスタグラムのフォロワーさんが紹介してくださった本だ。こちらは、ロングアイランド自体ではなく、ロングアイランド峡を挟んだコネチカット州の海沿いにある架空の街、グリーンウッドを舞台にしている。
タイトルからの予想に反して、不倫の物語である。しかも、お互い子供が3人ずつもいる、ミドルアッパークラスのカップルのW不倫。ロングアイランドを望む浜辺での美しく官能的な逢引シーンから始まるが、2組の夫婦の一夏のゴタゴタを綿密に綴ったメロドラマとも言える。冒頭のシーンで、主人公のジェリーが、モラヴィアの小説を批判しているのが、実にシニカルで印象的だ。
「あまりね。嘘っぱちだからってわけじゃないんだがね。何というか・・・」彼は本を手の中でゆすりかたわらにぽんと放りだしたー「実のところ、わざわざ小説にするまでもない話だと思うのさ」「でも、わたしはいいと思うわ」「きみはね、何でもいいとすぐ思うんだ、そうじゃない?だって、モラヴィアはいいと思うし、なまぬるいワインはいいと言うし、それにセックスだってすてきだ、と思っている」
もしかしたら、サリーが読んでいたのは、モラヴィアの『軽蔑』だったのではないかしら、と思うくらい、この小説も、同じように不倫の男性がうだうだする話である。
モラヴィアの小説と違うのは、主人公の男性ジェリーに漂うヒロイズムだ。アップダイクは比較的最近の現代作家だけれど、主人公ジェリーのヒロイズムや独特の女性像は、フィッツジェラルドの小説と同じくアメリカ的なものを感じた。
「いいや、違うよ、それは。きみが悪いんじゃない。悪いとすれば、それはぼくだ。ぼくは男で、きみは女だ。すべて事をうまく処理するのは男のぼくの役目だ。それなのに、ぼくはそれをやれないんだ。きみは善い人だ。素晴しい女だということをきみは自覚していなくてはいけない。自分が素晴らしい女だということをきみは知ってるかい?」
見よ、この徹底したヒロイズム。男たるもの、こうでなくてはいけない。男たるもの、強くあり、うまくことにあたり、そして世間と女を御するものなのである。このヒロイズムが、女性を徹底してヒロイン化し、偶像化し、その性的魅力に極度に心酔して振り回されるとともに、ほとんど定型化されたような、ヒステリーで神経症な女神を産んできた。フィツジェラルドの『夜はやさし』や『グレート・ギャツビー』にあるようなヒロインたち、そして、この小説のサリーのような女性たちである。ヒーローである男たちは、こうしたヒロイン達にかしづき、さんざん振り回され、そして最後は彼女たちを犠牲にして旅立ってゆく。
アメリカはウーマンリブの国、日本よりもずっと女性差別が少ない社会を実現しているように見えるけれど(事実そうだけれど)、こういうヒロイズムとヒロイニズムが根付いていた社会が、そこまで行き着くには、フェミニスト達の並々ならぬ苦闘があったであろうなあ、と思うのである。そしてまた、意地の悪い私は、きっとこの神話は消え去ったのではなくて、捻じ曲がって歪んで、今もアメリカ人たちの深層心理と社会生活の奥底に横たわっているんだろうなあ、とも思う。
アメリカ文学お定まりのヒロイズムの他に、もう一つアメリカ的で面白いのは、キリスト教との関わりである。主人公のジェリーやヒロインのサリーは、姦通については何の疚しさも感じないが、それでも、キリストについての一種の敬虔さを持っている。特に、ジェリーは、サリーとの愛欲を優先して妻子を捨てる決意をするような非情さを持ちながらなお、自身の魂の救済について思い悩んでいる男である。むしろ、宗教の不在が、ジェリーとルースという夫婦の不和の元凶になっているのである。この小説もその登場人物も、決して宗教的ではないのに、でも、やっぱりキリスト教はそこにある。これもまた、日本人には中々理解しがたい、アメリカの一つの側面だと思う。
コメント