書評・小説 『夜はやさし』 スコット・フィツジェラルド


フィツジェラルドの最長作品で、自伝的要素が強いとされている作品である。若く優秀なアメリカ人の精神科医ディックは、患者である大富豪の美しい娘ニコルと恋に落ちて結婚する。しばらくはディックは富も名声もある華やかな生活を送っていたが、若い女優ローズマリーと恋仲になる。それを境に、次第にニコルの病気の再発や彼女の莫大な財産が重荷となり、酒に溺れて彼女との愛も消え、彼の人生は転落していく。

フィツジェラルドは私にとって少々評価が難しい作家だ。初めて読んだのは多分高校生の頃、オーソドックスに『グレート・ギャツビー』だったのだが、何が良いのかさっぱり分からなかった。それから長らく忘れていたのだが、数年前に短編集『バビロン再訪』を読んでおや、と思った。それが再評価のきっかけになって『グレート・ギャツビー』をもう一度読んだらすっかり印象が違っていたのである。ストーリーとかキャラクターとか或いは私の好きなディティールとかを超えて、文章に何か、心に響くものがある。自分の好きなタイプではないのに、どこか引っかかる感じ。

そしてこの『夜はやさし』である。この作品は長編小説としては決してできが良いとは言えないと思う。実際、フィツジェラルドはこの作品を発表後、構成の失敗に気づいて修正を試みたそうである。しかし、何か物語が冗長になったり、散漫になったりする合間に、ものすごく研ぎ澄まされた文章が突然煌めいて、それが読む者の注意を逸らさせないようなところがあるのだ。

たとえば、こんななにげない一文

もっとも、その正体ははっきりとはわからなかったが、のちになって思いかえすと、その午後の数時間はすべてがしあわせだったと思うーーーとりたてて何もないそのひとときは、その時は過去と未来のよろこびをつなぐかりそめの輪にすぎないように見えたが、実はよろこびそのものであったのだと。

たとえば、ディックが過ぎ去ってしまったニコルとの愛を思い出すシーン

いつだったか、草がしっとりしめっていたとき、きゃしゃなスリッパを露でぐしょぬれにして、急ぎ足で彼のところにやってきた彼女のことを思いだした。間近に身をよせながら彼の靴の上に足を乗せ、本のページを開いたように顔を上に向けたことがあったと。

「あなたがどんなふうにあたしを愛してくれているかを考えて」彼女はささやいた。「常にこんなふうに愛してほしいとは思わないの、でも思いだしてほしいの。いつもあたしの胸の中には、今夜のようなあたしがいるということを」

突然差し込まれた追憶の情景、「本のページを開いたように顔を上に向けた」というようなさりげない直喩、そして後の狂気や退廃を暗示して悲しく美しく響くニコルの台詞、すべてが完璧過ぎて、この部分を読むだけで、この長い物語全てに意味があった、と感嘆せずにはいられない文章ではないだろうか。

ロマンチックとか詩的とか言うだけではない、独特の格調と端麗さがフィツジェラルドの文章にはあると思う。

ストーリーや文章とは別に、『夜はやさし』で気になった点が2つある。それは「ヨーロッパのアメリカ人」と「アメリカ男のヒロイズム」だ。

昔、有名な『パリのアメリカ人』という映画があったが、この作品は、さしずめ「ヨーロッパのアメリカ人」と言ったところか。それくらい、ディックとニコルが初めて出会うスイスのチューリヒから始まり、南仏のリヴィエラ、パリ、アルプス、ミュンヘン、ローマと舞台をうつして、執拗に「旧世界の中の富裕なアメリカ人」の姿が描かれる。これは、いわゆるロスト・ジェネレーションと呼ばれたフィツジェラルドたちアメリカ人作家の強烈な自負の表れとも言えるだろう。ロスト・ジェネレーションについては、また別の機会に色々書いてみたいことがあるのだが、第一次世界大戦後に突如として強力なマネーパワーを持って、ヨーロッパに現れたアメリカ人たちの孤独というのは、現代のアジア人が知るアメリカ人像からはちょっと想像しがたいものがある。物語の中でたびたび登場するほとんど筋違いのようなイギリス人への敵意など、読んでいて笑えてくる。

その「American(男)」が体現するヒロイズム、というのも興味深い。思えば、代表作『グレート・ギャツビー』もヒロイズムの権化である。『夜はやさし』でも『グレート・ギャツビー』でも、主人公の男性は崇高なヒロイズムを発揮して女性を守ろうとする。そして、女性は庇護されるべき存在でありながら、ヒーローを最後には裏切る加害者である。定石通り、ヒロイズムの裏側には隠れた女性蔑視があると思うのだが、女性のずるさ愚かさを描くフィツジェラルドの筆は中々に冴えていて、面白いなあ、と思ってしまう私はフェミニストにはなりきれない。

男の傷つきやすいところはそのプライドだけだということーーーひとたびそこをつかれると、塀から落ちた卵同然、二度と立ちあがれぬもろい存在なのだ。その事実をはっきりとつかむアマゾン族の女性が出現するには、なお幾百年の歳月を必要とするらしいーーーもっとも、中には口先ばかりのお世辞を言ってその事実につぐないをつける女もいるが。

そんなことをしたところでなんの役にもたちはしない。「アメリカ女性」がたけりたって目の前に立ちはだかっているのだから。アメリカ人の精神的バックボーンをへし折り、大陸全体を子供部屋と化し去ったあのすさまじい非合理的気質は、彼などの手に終えるものではない。

現代の女性からすると、女性を心の中でバカにしながらなおかつ偶像的に崇拝して振り回され、勝手にヒーローを気取って事態をややこしくしたのはお前だろう、と突っ込みたくもなるのだが、そういう無粋な気持ちは押し包み、失われたアメリカ男の哀愁とロマンに浸っていただきたい。いや、無粋な私にさえそれを可能にしてしまうのが、フィツジェラルドの文章の力なのかもしれない。文学ってすごいではないか。これはこれで最大限に褒めているのです。悪しからず。

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