ローナ・ゴッフェン著『ヴェネツィアのパトロネージ』に触発されて、聖母信仰と美術への関わりについてもっと知りたくなった。特に、聖母信仰が世俗的な民間信仰と強く結びついているところに興味を覚えたのだ。
宮下規久朗氏は、『聖と俗』をはじめ『美術の力』、『ヴェネツィア 美の都の一千年』など、このブログでも何度も取り上げている。この西洋宗教画の大家が、聖母のイメージという大きなテーマで、伝統的なキリスト教美術はもちろんのこと、印象主義以降の現代美術や南米や日本の南蛮美術への影響に至るまで触れたこの新書は、「まさに!」という感じで求めていた一冊だった。
宮下氏は、本書の中で、宗教美術を分類する方法として「イコン」と「ナラティブ」という定義を挙げている。
イコンは時間や物語を超越し、永遠の姿をとどめているようだが、生涯の一場面のように物語性や時間性を含んだ物をナラティブ(説話表現)という。キリスト教美術は概ねイコンからナラティブへ発展してきたといえるが、キリストや聖母などの画像や彫刻にはイコン的な性格がつねに要請された。(略)宗教美術はいずれもイコンとナラティブに分かれるといってよい。仏教美術では、仏像や尊像、曼荼羅はイコンあるいはアンダハツビルト(祈念像)であり、仏伝図や縁起絵はナラティブである。
宮下氏は、《本書では、崇拝的なものを祈念像、歴史的なものをナラティブと呼び、前者を中心に見ていきたい》と述べているが、まず、印象的だったのは、聖母をめぐるナラティブの大元、聖書による聖母についての記述が極めて少ない、という事実だった。
キリストの事績を記したキリスト教の根本教典である新約聖書にも、マリアについてはごくわずかしか触れられていない。四つの福音書のうち、マタイ伝とルカ伝がマリアが処女のまま聖霊によってキリストを産んだと記しており、(略)最古のマルコ伝やヨハネ伝ではその名も記されず、新約聖書の半分を占め、キリスト教のあらゆる教義の原点であるパウロ書簡でも神の御子が「女から生まれた者」(ガラテア四:四)と記されるのみで、母マリアの働きについては何も語っていない。
聖書を読んでいる人からしたら当たり前のことなのかもしれないが、聖書の中にマリアの記述がほとんどない、ということは私にとってはかなり驚きの事実だった。キリストと並んで、いや時と場所によってはイエス・キリストその人以上に、崇拝されてきた聖母は、教典の中ではほとんど名前すら言及されない存在なのである。しかし、逆にその具体的な言及の少なさが、のちに詳しく述べるように、従来のキリスト教義とはかけ離れた、自由で豊富なイメージを生んだ要因なのかもしれない。
ともかく、実際に言及が少ない聖母だからこそ、限られた言及箇所が極めて重要になってくる。そこで、聖母の二大重要ナラティブが生まれてくる。「受胎告知」と「ピエタ」である。前者は先に述べたように、正式にルカ伝などにマリアが名前を挙げられて語られているエピソードであり、後者は、ヨハネ伝に、キリストが磔刑となった時に「イエスの母がいた」と記されていることから、我が子の死に立ち会う悲しみの聖母というエピソードにデフォルメされてきた。聖母に関しては、この二つのナラティブイメージが繰り返し使われるので、キリスト教に馴染みの無い者からすると、違和感を感じるほどなのだが、逆にこれぐらいしか言及箇所が無いのだから仕方ないとも言えるのかもしれない。
これだけ聖書では扱いの小さい聖母が、宗教美術の上ではなぜかくも大きな扱いをされているのか、後から述べるように、そこには普遍的な女神や母神のイメージが重ねられていることが最大の理由ではないかと思う。また父なる神によって、人間の受難を肩代わりさせられたイエス、という、非常に厳格な父と子の男性的ナラティブに対して、聖母は「癒し」や「慈悲」を与えてくれるナラティブとして機能したことも大きいのではないだろうか。
中世の終わり頃、1348年に東方からもたらされたペストは、約40年間にわたって猛威を振るい、ヨーロッパの人口の三分の一以上を奪い去った。(略)農村は荒れ、商工業は停止し、社会が停滞したが、激しい恐怖と悔悛の情にかられ、救いを求める人々や死を予期した者やその遺族が教会や修道院に多くの財産を寄進したため、教会や修道会の力が強化された。
アメリカの美術史家ミラード・ミースの古典的な研究によれば、このときの異常な額の寄進により、とくにフィレンツェに未曾有の富が蓄積され、多くの教会や修道院で大規模な宗教美術の振興を促すことになった。
この宗教美術の振興の中で大きな役割を果たしたのが、聖母のイメージである。《ペストが神の意思による懲罰の矢であっても、聖母はその意思に反し、聖母を信仰する者を守ると思われたのである。つまり、ペストの主導者である神に祈ることはできないため、聖母や守護聖人に神へのとりなしを祈るほかなかったのである》。しばしば厳しすぎる父なる神とストイック過ぎるイエスの教えに対し、聖母は常に民衆との「とりなし」役を担ってきたと言えるだろう。
本書では、「慈悲(ミゼリコルディア)の聖母」という《聖母が大きなマントを広げ、跪いて祈る人々を覆っている》イメージ、そこから派生して、「ペストの聖母」と呼ばれる《上から降り注ぐ矢を聖母のマントが跳ね返しており、囲われた人々を保護している》図像を紹介している。ジェノヴァのサンタ・マリア・デイ・セルヴィ聖堂にあるバルナバ・ダ・モデナの作品、ペルージャのサン・フランチェスコ・アル・プラート聖堂にあるベネデット・本フィーリの作品などが有名。現存する最古の「慈悲の聖母」は、現在シエナ国立絵画館にあるドゥッチョの作品だと言うが、シエナ派の代表シモーネ・マルティーニも、ヴェネツィアデル・フィオーレやバルトロメオ・ヴィ・ヴァリーニも、同じ図像の作品を残している。
「慈悲の聖母」は多くの民衆を傘下に収めるため巨大化していったが、ルネサンスの合理的かつ正確なプロポーションという要求の前に、次第にそういった図像が衰退していった。サンセルポルクロ市立美術館蔵のピエロ・デラ・フランチェスコ『サンセポルクロ祭壇画』やルッカのヴィラ・グイニージ美術館蔵のフラ・バルトロメオ作、或いは、シュウェービッシュハルのヨハンホール蔵のホルバイン作『マイヤーの聖母』における慈悲の聖母は、民衆を守るイメージを受け継ぎながらも、非常に調和の取れた図像に変化している。
こうした変化を経て、ミケランジェロの『ピエタ』やラファエロの『聖母子像』など、美しく格調高いルネサンスの聖母像の、いわば頂点とも言える作品が生まれてくるのである。
しかし、これら正統派の聖母のイメージも、バロック美術期に入ると、何やら怪しくなってくる。バロック美術が、カトリックによる民衆教化を目的として、言わばプロバガンダ的なものとして発達したことは、宮下規久朗氏の『聖と俗』や高階秀爾氏の『バロックの光と闇』で詳しく語られているのでここでは繰り返さない。本書では、聖母像の中でも、特にバロック的イリュージョンにマッチしてよく使われたモチーフとして、「無原罪の御宿り」と共に「幻視画」を取り上げている。
幻視の対象としてもっとも多かったのは聖母であった。後に見るように、十九世紀以降、聖母の顕現が急増するが、中世以来もっとも多く人間の前に現れ、またその像が落涙や流血したのは聖母であった。
キリストよりも聖母が頻繁に顕現するのはなぜだろうか。聖母は神ではなく、人間であるので地上に現れやすいのだろうか。あるいは、同じ人間であるのに顕現することで生を超えた力を持ちうるという希望を与えるためだという説もある。
圧倒的な刺激とエンターテイメント性で民衆教化を達成したのがバロック美術だった。そういう意味では、殆ど肉体的快楽に通ずるような体感を表象するものとして、「法悦」とか「幻視」とかいった題材が重要性を帯びたのも納得がいく。著者はさすがキリスト教に帰依しただけあって、この法悦や幻視といった宗教体験を、インチキとして退けるのではなくて、どこか「ありうるもの」として(というよりも、宗教体験自体を尊重していると言った方がいいかもしれないが)。真面目に取り扱っているのがとても印象的だった。
しかし、信者でない人間にとっては、例えば、マドリードのプラド美術館蔵『聖ベルナルドゥスの聖母』などに至っては、マリア像の胸から乳が螺旋状に放出し、それがベルナルドゥスの口に注がれている図像など、どう見てもポルノチックな要素を否めないというか、何かの悪い冗談のように思えて仕方ない。もちろん、描いている人たちもそれを当時崇めていた人たちも大真面目で、《マリアの乳はキリストの血とともに、もっとも重要な聖遺物として各地に残されて》いて、《宗教改革者カルヴァンは、それがあまりにどこにでもあるので、「聖母が牝牛か一生乳母でなかったらこれほど多くの乳は出せないはずだ」と皮肉を交えて批判している》ほどなのである。ファン・エイクの『ルッカの聖母』(フランクフルト・シュテーデル美術館)やレオナルド・ダ・ヴィンチの『リッタの聖母』(サンクトペテルブルク・エルミタージュ美術館)のように、ヌードに比較的寛容だったルネサンス期までは、聖母の授乳姿は美術界でも極めポピュラーな題材であった。
聖母と乳が歴史的にこのように大きな扱いを受けてきたことを考えれば、聖母における「処女懐胎」とそれと密接に関わる「無原罪の御宿り」が、信者たちにとってどれほど重要であったかも頷けるというものだ。
「無原罪の御宿り」については、ローナ・ゴッフェン著『ヴェネツィアのパトロネージ』でも詳しく取り上げられていたが、解釈を巡ってフランシスコ派とドミニコ派が長らく対立するほどに重要な教義だった。そして、1449年のバーゼル公会議で「聖母の無原罪」は聖書に合致するものとして認められ、1476年には教皇シクストゥス4世によって無原罪受胎の祝日が公認された。16世紀に発足したイエズス会は、この教義を強力に普及させ、民衆の間に信仰が広まった。
イタリアで始まった「無原罪の御宿り」の図像化は、17世紀のスペインで一般化し、グイド・レーニやベラスケス、マルティネス・モンタニェースらによって描かれ、ムリーリョの手によってその姿を完成させた。
もともと聖母が生まれながらに原罪を免れているという神学的な教義を表すものであった「無原罪の御宿り」の図像は、いつしかこの教義の視覚化という意味が薄くなり、単に幼児キリストを抱いていない若く清らかな聖母の姿として人々に敬愛され、広く信仰される図像となった。それは他の聖母像と違ってキリスト伝と切り離され、物語や時間性をもたない永遠の聖母のイメージであるといってよい。しかもルネサンス以降の自然な人間表現と示して親しみやすいため、代表的なキリスト教のイコンとなったのである。
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