書評・小説『ゴールド・コースト』 ネルソン・デミル ③


長くなったが、この小説の魅力は本当に一言では語り尽くせない。読んだ後に感じたのは、この小説そのものが「まんまアメリカ」「まるごとアメリカ」を体現しているなあ、ということだ。

全米でも特別な場所「ゴールドコースト」がよく表しているように、ここには並外れた特権階級がおり、容認できないような格差がある。作者のネルソン・デミルはアングロサクソン系でこそないが、ロングアイランド出身の白人であり、WASP階級への批判的描写の舌鋒は冴えているが、作者自身にもプア・ホワイト層や人種への偏見差別があることが、読んでいて十分伝わってくる。そして、そういう鼻持ちならない特権階級意識や、のし上がった者が追ってくる者を迫害しようとする終わりの見えない移民・人種差別の問題などが、娯楽作品としてアッサリ消化されて、結局のところ是認されているような世界。

これだけ書いたら、すごく絶望的に響く。だけどそこに相反するように両立しているものがある、それがまた、アメリカの魅力なのである。

1つは知性ある、徹底したユーモア。とにかく、この作品を読んでいる最中、ずっと笑いがとまらない。主人公ジョン・サッターのニヒルでブラックなコメントは、物語の最大のヤマ場、例えば、ベラローサがイタリアン・レストランで撃たれるシーンや妻スーザンとの最後の邂逅シーンでも、容赦なく続く。くだらない、ふざけたユーモアではなく、確かな知性と批判精神とに裏打ちされたユーモアが作品全体を貫いている。

2つ目は、人情と温かみ。ある意味冷徹とも言えるユーモア精神に反して、脇役たちのエピソードに溢れる人情味にはホロリとさせられる。スタンホープ家の奉公人であったエセルとかつての屋敷の主人との秘められた恋。主人公と子供とのやりとり。人間の心理の複雑さ、そこから生じる人間関係のやるせなさ、そういうものを、みなまで語らずに表現してみせる手法が見事だ。

3つ目は、ヒロイズム。ヘミングウェイの『移動祝祭日』の記事でも触れたが、アメリカ文学はヒロイズムと切っても切れない関係にある(少なくとも男性作家のものは)。ベラローサの「ゴッドファーザー」的ヒロイズムはもちろんのこと、自分の人生をぶち壊す張本人であるベラローサの命を、最後の瞬間で救おうとする主人公の姿もまた、一つのヒロイズムを体現している。

さて、ここで何をすべきか?“あんた、ボーイスカウトかなにかかね?”ああ、実を言えばそうなんだよ、フランク。それもバッジをたくさんもらったイーグル・スカウトだ。

「ボーイ・スカウト」という言葉で、アメリカの古き良き英雄像、ステレオタイプでなおかつ根深い「アメリカの良心」を代弁するデミルの表現力は本当にすごいと思う。

アメリカの上位中産階級の男性のほとんどは、運よく戦争に行くとか破産や離婚やその他の逆境を体験しないかぎり、けっしてほんとうのおとなにはなれないのだ。そうか、この夏でわたしは一人前の男になったわけだ。いい気分でもあり、同時に悪い気分でもある。

かくして、ボーイスカウトの少年たちは大人になる、というわけだ。

上質のユーモア、温かみ、ヒロイズム。これが揃って、極上のエンターテイメント作品が出来上がる。だから、「まんまアメリカ」だと感じるのだ。これらが同時に両立する奇跡。これは他の国の文化では中々真似できないように思う。

昔、テレビで、爆笑問題の太田さんが、アメリカの覇権主義や政治的問題をさんざん語った後で、「でもアメリカの映画は素晴らしいんだ。アメリカにはこういうことだけやっていてくれよ、と僕は思う。」みたいなことを言っていて、ああ、よく分かるなあ、と思った。アメリカがこんな素晴らしいエンターテイメントを提供するだけの国だったら良かったのに。

「でも、そうは問屋がおろさんのだ、お嬢ちゃん。全部ひっくるめてのアメリカなんだ、もっとオトナにならなきゃだめだよ、カピッシ(分かるか)?」と、フランク・ベラローサなら言うかもしれない。

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