書評 ・新書 『文芸サロン その多彩なヒロインたち』菊盛 英夫 ①


西欧の文芸サロンを古くはルネサンス期のイタリアから20世紀初頭のプルースト『失われた時を求めて』で描かれるようなフランスサロンの衰退期に至るまで、サロンの女主人公を紹介しながら纏めたもの。新書なのでやや羅列的なところはあるが、ドイツ文学史の先生だけあって、哲学史・文化史的な観点が随所に見られて面白い。

対象としている期間やサロンの中身など、ヴェレーナ・フォン・デア・ハイデン・リンシュの『ヨーロッパのサロン』とよく似ているが、ヴェレーナ・ハイデン・リンシュの方は、女主人公の半生や性格に焦点をあてたやや女性史、フェミニズム的傾向が強いのに対し、こちらはルネサンス期のウルビーノで「イタリアの光」と呼ばれたフェデリコ・モンテフェルトレ(ウフィッツィ美術館にピエロ・デラ・フランチェスカの描いた肖像画がある)、18世紀のフランスサロン全盛期に、啓蒙主義者たちの活躍ぶりを後世に伝える『文芸通信』を書いたドイツ人のフリードリヒ・メルヒオール・フォン・グリム、パリ1区サン・ロッシュの丘に広壮な邸宅を構えて文芸サロンを開き百科全書派の先鞭をつけたドイツ人の哲学者ポール・アンリ・ティリ・ドルバックら、貴重な男性サロン主人たちも紹介するなど、幅広い視野で文芸サロンの変遷を辿っている。『ヨーロッパのサロン』と補足的に読むとさらに面白いかもしれない。

サロンの女主人の紹介が、ルネサンス期、マントヴァ侯爵夫人のイザベッラ・デステから始まるのも『ヨーロッパのサロン』と同じである。それくらい、ルネサンス期イタリアの代表的サロンと言えばイザベッラ・デステの名前は有名なのだ。ただ、彼女の「文芸愛好者」としての優雅なサロン女主人のイメージは、現在ではかなり崩れつつある。

イザベッラ・デステにとっては国家理性がすべてに優先していたと言われる。・・・君主はより高い人間タイプであったから、芸術の庇護をも使命としなければならぬーこれは彼女には自明の論理であった。・・・自分が王笏を威嚇的にちょっと上げて合図さえすればすべての芸術家の群れはなんの抵抗もなしに自分の意志に服するだろうというイリュージョンを、この女は生涯捨てきれなかった。マンテーニャを除けば、大多数の芸術家は彼女のこのような考えについてゆけなかった。レオナルドが再三の懇願にもかかわらずついにその肖像画を描かなかった理由は、イザベッラの権威主義的芸術志向を天才らしく鋭く見抜いていたせいではあるまいか。

レオナルド・ダ・ヴィンチとイザベッラ・デステとの応酬については、小説ではあるがカレン・エセックス著『ダ・ヴィンチの白鳥たち』が参考になる。ミラノの君主イル・モーロに嫁いだ彼女とは対照的な妹ベアトリーチェとの確執も描かれていて中々面白い。イザベッラ・デステ個人の半生については、著者も参考文献として挙げている塩野七生の『ルネサンスの女たち』が面白く、私もこの本で、イザベッラ・デステの名前を初めて知った。

芸術家たちへの冷たい仕打ち、合理的なようで感情的だったり迷信深かったりする矛盾的な性格、妹ベアトリーチェへの対抗心、そんな妻に愛想を尽かしてか夫フランチェスコ・ゴンザーガは、当代きっての魔性の女ルクレツィア・ボルジアと不倫の仲を噂されたり、とかく女性的・人間的魅力に欠ける人物として描かれがちなイザベッラ・デステだが、当時の君主としてのあり方、考え方に即せば当然だったとも言える。

当時の文芸サロンは決して「芸術を庇護」する高邁な立場から生まれたのではなくて、そういったサロン的付き合いをすること自体で権力誇示をしたり情報交換をしたりする政治的な場という意味合いが強かったのである。当時は純粋な「芸術家」などは無論存在しなかった。君主は画家や彫刻家を雇われ職人の一部とみなしていたし、イザベッラ・デステでさえ随分と丁重に扱った巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチも、芸術家というよりは、軍事技術や産業基盤整備から居城の室内装飾まで請負う総合技術者・アドバイザーのような位置付けだったことは、若林直樹も著書『退屈な美術史をやめるための長い長い人類の歴史』の中で指摘している。

イザベッラ・デステの芸術愛好は、いうなれば当時のイタリア都市国家の権力プログラムの一つに属する美的ミッションから発していた。だから彼女の芸術・文学に対する態度は矛盾に充ちている。しかしこれはイザベッラだけがそうだったのではなく、ルネッサンス期の人間一般に今日からは理解できないような矛盾があり、しかもそれを矛盾とは感じなかったのだ。

このルネッサンス期の人々の(現代の私たちから捉えると)大きな矛盾について作者は、ローマの伝説的な遊女インペリアなど高等遊女のサロンの章でも指摘している。

多くの高等遊女が男から男へと渡り歩きながら、しかもなお敬虔な信仰に生きることができたとは、われわれからすれば奇妙な現象であるが、徳と認識は知と一体のものとされ、宗教から完全に区別して考えられていたソクラテス的原理の支配下ルネッサンス期のことだから、そこに矛盾は感じられなかった。

こうしたルネッサンス期の捉え方は、先述の塩野七生の著作にある考え方に沿ったものだとも言えるだろう。それにしても、サロンが、身分の高い女性だけでなく、高等遊女によっても主催され、活性化されていたという事実は、イタリアとフランスで時代と国は違えど奇妙に符合している。ヴェレーナ・ハイデン・リンシュなど、高等遊女のサロンについては触れてもいないが、ここはフェミニズム史的にも中々興味をそそる分野である。もしかしたら、日本や中国でも似たところがあるかもしれない。サロンというもののもつ性格、アウトサイダーの集まり、享楽的・厭世的な面など、詳しく掘り下げたら面白い分野だと思う。

ローマ略奪後、イタリアの都市文化は衰退し、文化の中心はフランスへと移る。ランブイエ侯爵夫人、高等娼婦のニノン・ド・ランクロ、セヴェニエ侯爵夫人など17世紀のサロンについては、川田靖子著『17世紀フランスのサロン』の方がより詳しい。18世紀に入ると、きなくさいタンサン夫人にジョフラン夫人、恋に生きたレスピナス嬢に国王の情婦として成り上がったポンパドール夫人と、サロンの女主人達の性格がより享楽的になっていく一方で、百科全書派たち新しい思想家たちが、その下で庇護されたことも重要なポイントである。このような環境下で革命の下準備がされたというのも皮肉なようでいて、必然的なことだったのかもしれない。

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