『舞姫』をお得に読む
須賀敦子さんの『遠い朝の本たち』で、敦子さんのお父様が森鴎外を殊の外気に入っていたエピソードに触れ、久しぶりに読んでみたくなった。中高生の頃に、『舞姫』やら『山椒大夫』やら、通過儀礼的に夏目漱石とかと一緒くたに一応は読んでみたとは思うのだが、殆ど記憶に残っていない。何やら堅苦しい文章の作家であった、という印象ばかりである。
久しぶりに読んでみて、文章の格調高さに本当にハッとさせられた。『舞姫』の擬古文調ながら、登場人物たちの心細やかなある意味生々しくもある様子を描いているところも見事だが、何と言っても秀逸なのは『雁』である。こんなに素晴らしい文章だったかと目が覚める思いだった。私は日本の作家の中では、幸田文さんの文章が特に好きなのだが、幸田文のりんとしていながら柔らかい、やまとことば的な美しさに、漢文調の厳めしさと格調高さが加味されたような感じと言えばいいだろうか。物語の最初から最後まで、文章の滞りなく流れる波に気持ちよく流されてしまう。
不遇の囲い者である美しいお玉が、無聊の慰みに窓の外を通る学生を見ながら、いつしか自分をここから救い出してくれる英雄を夢見るようになる。
《そしてある日自分の胸に何者かが芽ざして来ているらしく感じて、はっと驚いた。意識の閾の下で胎を結んで、形ができてから、突然踊り出したような想像の塊に驚かされたのである。》
芽ざし、閾、胎、塊といった今ではあまり使われない言葉の中に、お玉の無意識とも言えるくらいぼんやりとしたままの思いが、いつしか予想以上に強い思いになって突然自覚させられた、そんな情感が見事にこめられている。
《女には欲しいとは思いつつも買おうとまでは思わぬ品物がある。・ ・・欲しいという望みと、それを買うことはしょせん企て及ばぬという諦めとが一つになって、ある痛切で無い、甘い哀傷的情緒が生じている。女はそれを味わうことを楽しみにしている。それとは違って、女が買おうと思う品物はその女に強烈な苦痛を感じさせる。女は落ち着いていられぬほどその品物に悩まされる。・・・万引なんということをする女も別に変った木で刻まれたものでは無い。・・・岡田はお玉のためには、これまでただ欲しい物であったが、今や忽ち変じて買いたい物になったのである。》
ちょっとした引用や例え話的なものを差し挟んで、間接的にそれだけぴたりと登場人物のこころを描写してみせる。《別に変った木で刻まれたものでは無い》なんていう言い回しも、きっと何かの漢文的慣用句や用語を意識したものであろうが、現代ではちょっと思いつかないニュアンスを含んだ表現だ。
森鴎外の文章の格調高さに改めて驚かされると同時に、その物語を型どる視点には、久しぶりに川端康成の『女であること』を読んだ時と同じような違和感というか、モヤモヤ感が残った。今回読んだ集英社文庫版には、『舞姫』『雁』のほか、『普請中』と『妄想』を加えた4篇が収められているのだが、『妄想』を除く3篇が、男に弄ばれる女哀しい姿を描いた話である。物語の筋がどうこうというより、描かれている女性像が一貫して男の掌の中にある女、男を通してしか描き得ない女の姿であるのが気にかかるのである。
時代のせいと言えばそれまでだし、川端康成もそうなのだが、そこにはある種の女の生臭さや身勝手さも描かれていて、この時代の男性作家の分析力や観察力に感心するところもある。
《それからお玉が末造を遇することはいよいよ暑くなって、お玉の心はいよいよ末造に疎くなった。そして末造に世話になっているのがありがたくもなく、自分が末造の為向けてくれる事を恩に被ないでも、それを末造に対して気の毒がるには及ばぬように感ずる。》
もともとは生真面目な娘であったお玉が囲い者になってだんだん性根が変わっていく様子がとてもよく分かるくだり。
《朝目を醒まして起きずにはいられなかったお玉も、このごろは梅が、「けさは流しに氷が張っています、も少しおやすみになっていらっしゃいまし」なぞというと、つい布団にくるまっているようになった。教育家は妄想を起させぬために青年に床に入ってから寝附かずにいるな、目が醒めてから起きずにいるなと戒める。少壮な身を暖い衾の裡に置けば、毒草の花を火の中に咲かせたような写象が萌すからである。お玉の想像もこんな時にはずいぶん放恣になって来ることがある。そういう時には目に一種の光が生じて、酒に酔ったように瞼から顔に掛けて紅が漲るのである。》
そこらへんの官能小説より艶かしいお玉の姿が目に見えるようだ。
ただ、そういう分析も、女性のリアリティを描こうというのではなくて、あくまで男から見た女性の悲哀物語に情緒を添える演出に過ぎないのだ。だから、今の女性が読むとなんだかすっきりしなくて踏み込みが足りないような気がしてしまう。
分析され演出される女性の姿に納得と違和感の両方を感じる。つくられてきた女性像というものが男性だけでなく、それを受容してきた女性にも影響してきたことを強く感じる。わざとじゃなくて、そういう読み方をするようになった自分を面白いと思うし、だから読書ってやめられないんだよなあ、と思うのである。
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