書評・小説 『海辺のカフカ』 村上 春樹 ②


『海辺のカフカ』をお得に読む

「メタファー」が使われるだけでなく、それ自体を物語の中で取り上げる、という手法も、この作品で特に印象的なところだ。メタファーは普通文学的には「隠喩」と和訳されるが、村上春樹の作品の中では、文学的な意味を超えて、人の知識や思念によって編集された表象、みたいな意味を持っていると思う。『騎士団長殺し』では、騎士団長=メタファーという位置づけだが、似たような存在(カーネル=サンダースのおじさん、騎士団長もそうだが、小さいおじさんが村上春樹は好きらしい)がこの作品にも登場するし、『オイディプス』の予言も含めて、主人公がメタファーの意味を探ること自体がこの物語の一つの主題となっている。

「でも人間はなにかに自分を付着させて生きていくものだよ」と大島さんは言う。「そうしないわけにはいかないんだ。君だって知らず知らずそうしているはずだ。ゲーテが行っているように、世界の万物はメタファーだ」

「そういう風に関係性がひとつひとつ集まると、そこに自然の意味というものが生まれる。関係性がたくさん集まると、その意味もいっそう深くなる。(略)だからね、俺が言いたいのは、つまり相手がどんなものであれ、人がこうして生きている限り、まわりにあるすべてのものとのあいだに自然に意味が生まれるということだ。いちばん大事なのはそれが自然かどうかっていうことなんだ。頭がいいとか悪いとかそういうことじゃないんだ。それを自分の目を使って見るか見ないか、それだけのことだよ」

『<私>は関連の内容であるのと同時に、関連することそのものである』

「ふうん」

『ヘーゲルは<自己意識>というものを想定し、人間はただ単に自己と客体を離ればなれに認識するだけではなく、媒介としての客体に自己を投射することによって、行為的に、自己をより深く理解することができると考えたの。それが自己意識(略)私たちはこうしてお互いに、自己と客体を交換し、投射しあって、自己意識を確立しているんだよ。行為的に。簡単に言えば」

「まだよくわからないけど、なんか励まされるような気がする」

「それがポイントだよ」

「そうだ。相互メタファー。君の外にあるものは、君の内にあるものの投影であり、君の内にあるものは、君の外にあるものの投影だ。だからしばしば君は、君の外にある迷宮に足を踏み入れることによって、君自身の内にセットされた迷宮に足を踏み入れることになる。それは多くの場合とても危険なことだ」

なんだかやたら分析的な記事になってしまったので、ここらでやめるとしよう。結論として『海辺のカフカ』を個人的に好きか否か?と聞かれたら、「うーん、半々」という中途半端な答えになってしまいそうだ。色々挙げた通り、この作品ではかなり村上春樹「お馴染みの」手法が展開されていて、ややマンネリ感は否めない(まあ、村上春樹ファンにとっては、その「お馴染み」感が良いのだ、と言わればそれまでだが)。ただ、珍しく主人公が大人ではなく少年である、ということも手伝って(こんな15歳は絶対にいない、と誰もが思うと思うが)、他の作品とは少し違う新鮮さもある。

少なくとも、『騎士団長殺し』みたいに、21世紀にもなって30代の男性がカセットデッキでデュランデュランを聴いていたり、娘と言ってもいいような歳の少女と巧妙にセックスを隠した、でも極めてセクシュアルな関係(前の記事で述べた通り、村上春樹の小説はいつも少女や若い女性が触媒となって、それはやはり女性というセックスにキーがある)を維持していたりするよりは、15歳の少年が古いロックを聴いていたり、母親であるかもしれない美しい中年女性とセックスしてしまう方が、まだしも受け入れやすいと思うのだが、それは個人的な感覚に過ぎないのだろうか?

それはともかく、村上春樹の長編小説の一番の醍醐味、ディティールの方にうつるとしよう。まず音楽、それからグルメ、文学、映画、の順番になるだろうか。これは、デビュー作の『風の歌を聴け』から一貫しているし、村上春樹ファンにとって、これこそ彼の小説を読む意義、と言えるかもしれない。

音楽の方は、おおよそ、ジャズ、60〜70年代のロック、そしてクラシック、の3ジャンルに分けられる。この『海辺のカフカ』でもその3ジャンルだが、今回は主人公の年齢設定もあるのか、ジャズは少なくて、ビートルズやデューク・エリントンやプリンスなどが出てくる。クラシックの方のテーマ曲は何と言っても、ベートーベンの「大公トリオ」だろう。東京FMで村上春樹がDJを務める「村上RADIO」が放映されていることはファンでなくても知っていると思うが、村上春樹ファンが、彼の小説に登場する音楽を網羅的に紹介している「村上春樹 音楽大全集」なるサイトまであって、いやほんと、村上春樹の影響力というか、ファン層の強さ、幅広さはすごいなあ、と感心しきりである。

映画についてはこの作品には殆ど出てこなくて、文学作品については、まずタイトルと主人公の名前通り、カフカの『城』や『流刑地にて』などが出てくる。それから、夏目漱石の『坑夫』も、前述の「メタファー」の例として引かれるし、前回の記事で述べたように物語自体が『オイディプス王』をメタファーしていて、『カッサンドラ』などの作品を通してギリシア悲劇事態について言及される。日本古来にある「生き霊」的なモティーフも使われていて『源氏物語』や『雨月物語』の名前もあがるが、『雨月物語』については、『騎士団長殺し』でも重要な役割を担う。

さて、お待ちかね(私が)、グルメについて。この作品は、設定上、スノッブ臭はかなり薄くなっているのでグルメの描写は比較的少ない。讃岐うどんも捨てがたいが、やっぱりここはサンドイッチだろう。『ラオスにいったいなにがあるというんですか?』の記事でも書いた ように、村上春樹作品とサンドイッチは切り離せない。大島さんが作ってくれるサンドイッチは、《柔らかい白いパンにスモーク・サーモンとクレソンとレタスが挟んである。パンの皮はぱりっとしている。ホースラディッシュとバター。>

「村上春樹 サンドイッチ」でググってみれば、出てくる出てくる、神戸トアロードの「デリカテッセン」の記事やら、再現レシピの記事やら。村上春樹ファン、音楽の方もそうだが、こちらの熱量もかなりのものだ。彼の小説の主人公なら「やれやれ」と言うところかもしれない。

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