書評・経済書 『善と悪の経済学』 トーマス・セドラチェク ③


セドラチェクの現代の主流派経済学への批判は、数学やデータや理論への傾倒だけでなく、もっと根本的な部分にも及ぶ。最後に、私の興味を惹いた部分を記録しておきたい。一つは、「財政赤字」と「経済成長神話」の問題である。

だが現に必要なのは、借金をゆっくり増やすことではなくて、できるだけはやく減らし、すくなくとも次の危機が起きる前までに、ある程度の黒字を蓄えることだ。将来的には、GDPの伸びの一部を犠牲にして経済成長を人為的に原則し、その分の余力で債務削減を実行すべきである。(略)これまで「景気拡大期に黒字を積み上げよ」というルールは存在しなかった。まずはこれをルール化すべきだろう。このルールを守っても景気後退は回避できないが(いや、何をしても避けることはできまい)、対応する余地を生み出すことはできる。

したがって、経済政策の目標を見直す必要がある。GDPの最大化から債務の最小化へ、すなわちMaxGDPからMinDebtへの政策転換である。現世代ではGDPの最大化が問答無用の呪文のようになっているーどんな犠牲を払っても、借金をしようと、働きすぎになろうと、GDPを増やせ、と。だがいまは、妥当な水準の成長をめざすべきときではないか。

財政赤字については、インフレや経済成長の問題と絡んで、この数十年でも経済学で主流な考え方は二転三転している、と言える。世界恐慌の反省から、長らくインフレと財政赤字のコントロールは経済学の中でも最も重要なテーマとされてきたが、一方でスティグリッツが『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』で糾弾したように、行き過ぎたインフレ率のコントロールや緊縮財政は、特に新興国の成長を妨げ、グローバル経済を混乱させてきた。そんな中で、リーマン・ショックが起こり、先進国の方も、なし崩し的に財政赤字を容認してきたまま今に至る。近年では、MMT理論のように財政赤字は積極的に容認すべきという主張も出てきている。ちょうど今、MMT理論の主唱者の一人であるのステファニー・ケルトンの『財政赤字の神話』を読んでいるところなので、この問題はそちらを読後にまた改めて考えたいと思う。

しかし、GDPの最大化を諦め、緩やかな経済成長に切り替える、というのは、経済学というよりはむしろ、現代の資本主義精神の根幹に関わる問題である。現実的にはかなり難しいと思うが、一方で、どの程度の経済成長が本当に自然な数値なのか、という問題もある。これはトマ・ピケティ が『21世紀の資本』で指摘していたことでもある。移民により飛躍的に人口が増加していったアメリカの成長率や、世界大戦により壊滅的な打撃を被った後の欧州や日本の成長率をもって目標を定めるのは、いかがなものか。

もう一つ、この本を読んで印象に残ったこと。それは、文学や映像作品についての引用の多さである。この本は経済学に関わる哲学や宗教について語ったものなので、当然文学や芸術からの引用も多くなりがちなのはわかるが、それにしても多い。セドラチェク一番のお気に入りは映画『マトリックス』で、この本の中でなんと計7回も引用している。その他にも、映画化もされたチャック・パラニュークの小説『ファイト・クラブ』、サミュエル・ベケットの戯曲『ゴドーを待ちながら』、サルマン・ラシュディ『怒り』に、詩人としても有名なクラリッサ・エステスの『狼と駆ける女たち』やソクラテスの弟子クセノポンの著述『ヒエロン』までさまざまだ。人気バンドU2の歌詞も出てくれば、映画『ブルー・ヴェルベッド』や『2001年宇宙の旅』の名前も。

以前、ニーアル・ファーガソンの『マネーの進化史』の記事で、やはり文学作品が多く引用されていることに触れ《膨大な経済的知識やデータや客観的事実を元に、ある種の歴史的コンセプトやストーリーを発見できる鍵になるのが、文学の持つ力なのではないか》と書いた。セドラチェクが、本書でニーアル・ファーガソン自身の文章を何度か引用しているのも多分、偶然ではあるまい。データや数学の積み重なりの中から、コンセプトやストーリーを発見できるかが、コンピューターにはできない人間が関わる意味でもある。その力の源はおそらく、文学や芸術作品の力と大きく関わっている。社会科学がコンピューターの進化によって、データや数式や理論の恩恵を大きく受けることになった今だからこそ、文学や芸術を学ぶことによって得られる力が問われてくるのだと思う。

モデルは、物語にすぎない。あるいは、数学者にして経済学者のエリオット・ロイ・ウェントロープの言葉を借りれば、自伝にすぎない。現在のモデルや抽象概念のエラーを通じて、新しい物語が発見される。いまの理論の数式にフィットしない落ちこぼれこそが、新しい地平を切り拓くカギを握っているのである。だから科学者はエラーを葬り去らず、最大限の注意を払う。エラーの中に、まったく新しい、そしておそらくはよりよい公理系のヒントが見つかるかもしれないからだ。

経済理論は、いま問題にしている事柄にどれだけうまく適合するかを基準に活用する方がよい。その公理系が自分の世界観とどれだけ近いかを基準に選ぶのはやめにしたい。(略)

インスピレーションは不意にやってくるものだ。そのための科学的あるいは厳密的な方法などない。来たら喜ぶ、それだけである。経済学は厳密さを要求する。しかしそのために経済学者は、知識獲得のもう一つの面を無視してしまう。それは感じとること、謎を発見すること、インスピレーションをつかまえること、芸術や美に心を開き感性に従うことである。これらはどれも、厳密な科学的方法に劣らず大切である。問題に直面したとき、インスピレーションや好奇心や情熱がなかったら、発見はあり得ない。『マトリックス』の中でトリニティが言ったように、「われわれを突き動かすのは問い」なのである。

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