書評 『アンのゆりかご 村岡花子の生涯』 村岡 恵理


海外文学が好きな癖に原文に当たる語学的力量はないヘタレの私にとって、翻訳家というのは本当にありがたくかつ貴重な存在である。その文章があまりに好き過ぎて、何度も何度も読み返してしまい、一体原作者の文章が好きなのか、その翻訳家の方の文章が好きなのか、自分でも分からなくなってしまう翻訳家もいる。サガンを訳した朝吹登水子さんとモンゴメリを訳した村岡花子さんである。

翻訳家の方は作家と違って、個人のドラマに注目されることは殆どない。フランス文学研究者でもあって朝吹さんは、ご自身で書かれたエッセイなども多いし、義姉であるシャンソン歌手の石井好子さんのエッセイ『巴里の空の下オムレツのにおいは流れる』なんかにも密かに登場して、お人柄を偲ぶ機会も多い。村岡花子さんについては今まであまり語られて来なかったので、お孫さんに当たる村岡恵理さんが書いたこちらの評伝が前から気になっていた。

日本では村岡花子さんと言えば『赤毛のアン』、というイメージがあって、タイトルにもアンの名前が出てくるので、もっと『赤毛のアン』を中心に語られているのかと思ったが、アンについての言及は思いの他少ない。村岡花子さんの生涯を語りながら、彼女と交流のあった女性たちにも多く触れることで、大正から昭和にかけての女性史を垣間見ることができて、これはこれでとても面白かった。

給費生として入学した名門ミッション・スクール東洋英和女学校での出会いは、まず何と言っても柳原燁子ことのちの柳原白蓮との友情が印象的だ。姉のように慕う明子が、親子ほども歳の違う無学の大富豪の後妻として嫁ぐことを、少女らしい潔癖さで許せない花子。しかし、燁子が「白蓮事件」で世間を騒がせてからは、密かに手紙を送って彼女を気遣っているところに、二人の真摯な友情が見て取れる。「白蓮事件」についてはなんとなく知っていたが、急に彼女に興味が湧いて、ついつい林真理子さんの『白蓮れんれん』など手に取ってしまった。

須賀敦子さんのエッセイなどを読んでも分かる通り、戦前のミッション・スクール女子校の語学と教養レベルの高さは、今の「お嬢様学校」的なイメージとは随分かけ離れているなあ、と思う。本書で、村岡花子が学んだ東洋英和女学院の歴史に触れた箇所では、明治23年に教育勅語が定められ、天皇制を強化し「忠君愛国」を掲げる男子中心の教育政策が決行されて、ミッション・スクールには圧力がかけられた。《殊に学歴が、卒業後の就職に物言う男子を預かる学校にとっては、深刻な問題だった。(略)東洋英和女学校と共に創立され、その男子部であった東洋英和学校は、この時、苦渋の選択を迫られ、キリスト教を捨て進学校の道を選んだ。現・麻布学園である》。ミッション・スクールは「所詮女子の学校だから」とおめこぼしを貰ったお陰で、欧米からの婦人宣教師を受け入れ、質の高い語学教育が行われていた、とはいささか皮肉な結果ではある。出戻りであった白蓮や、徳冨蘆花の洋行中に身を寄せていた妻の愛子など、身分や教養ある女性の一時的避難所となっていたところも印象的だった。

ミッション・スクールは女性の教育の最後の砦となっていて、だからこそ、女性の地位向上、自立、参政権獲得など、大正・昭和のフェミニズム運動を推進する母体にもなった。文学畑の村岡花子が、「日本基督教婦人矯風会」の会報誌の編集に携わり、守屋東らと交流を深めたこと、日本女子大学を創立した広岡浅子の勉強会に参加し、後に婦人参政権獲得運動の旗手となる市川房枝と学んだこと、などからも時代の背景が推察できる。

勿論、個性的な女性文学者との交流も見逃せない。同じく東洋英和出身、歌人佐々木信綱の門下であり、日本にアイルランド文学を紹介した翻訳者でもある片山廣子。花子より15歳も年上ながら、彼女に最初に翻訳文学の面白さを教え、花子が夫と二人で青藍社書房という小さな出版社を起業した時には出資を引き受け、生涯変わらぬ友情が続いた。片山廣子の名前はこの本で初めて知ったが、日銀理事を務めた夫が亡くなった後、軽井沢の別荘で文学サロンを開き、そこで芥川龍之介と交流を暖めた。《天才と謳われた芥川をして「才力の上にも格闘出来る女」と言わしめた女性、「越し人」とは片山廣子と、芥川の死後、堀辰雄が公表》したと言う。

また少女小説家として有名な吉屋信子も、花子が山梨英和で女教師をしながら『少女画報』の雑誌に小作品を寄稿していた頃から名前が上がり、昭和3年に上野の精養軒で開かれた吉屋信子の渡欧壮行会に、与謝野晶子、野上弥生子、円地文子、林芙美子、平林たい子など錚々たるメンバーと共に参加している。吉屋信子は、私の世代など全く聞いたこともなかったが、戦前の少女たちの憧れの的であったことが、田辺聖子さんのエッセイを読むと分かる。田辺聖子さんは吉屋信子さんの大ファンであったようで、『私の古典摘み草』でも、古典と言うには新しい彼女の作品について一章を割いている。

件の吉屋信子の渡欧壮行会に、若かりし宇野千代さんが白地の浴衣、素足に塗り下駄という奇想天外な艶やかさで登場し、人々の注目を一身に集めた、といったエピソードも紹介されていて、宇野千代さんのオシャレぶりを語っていて面白い。

翻訳家として大成されてからは、数多い蔵書を元に私設の「子供図書館」を立ち上げる構想を練る。その構想にいち早く賛同したのが、当時編集者を務めていた石井桃子さん。このブログでも絵本『ちいさなねこ』などを取り上げている、有名な児童文学作家である。そして、その構想を実現した「道雄文庫」の協力者として、近所に下宿していた慶應大学図書館学科大一期生の渡辺茂雄さんが担ぎ出されたというのだから面白い。渡辺茂雄さんと言えば、名作『どろんこハリー』や『エルマーのぼうけん』などの翻訳を手がけ、ご自身でも「くまたくん」シリーズなど素敵な絵本を書かれている。村岡花子さんが日本の児童文学の土壌に撒いてくれた、たくさんの種。

交友関係ばかりを挙先に上げてしまったが、村岡花子さんご自身の数奇な人生、そして弛まぬ努力と不屈の精神、家族そして文学への愛情、といったメインストーリーもとても惹き込まれる。その中でも私が特に印象的だったのは、花子さん最愛の一人息子が疫痢によりわずか5歳で亡くなってしまったこと。結局、彼女はその後、実子に恵まれず、実妹梅子の娘みどりを引き取って養子とし、この本を執筆した孫の村岡恵理さんは、そのみどりさんの娘にあたる。

家族を子供を誰より愛おしく思い大切にしてきた花子さんの目の前で幼い我が子が命を引き取る。ここで、私は赤毛のアンシリーズの『アンの夢の家』を思い出してしまった。ギルバートとの新婚生活を綴った『アンの夢の家』は、シリーズの中でも一番多く読み返したくらい大好きな一冊なのだが、どうしても読むのが辛い箇所があって、それが、アンが初めて産んだ男の子がたった一晩でこの世を去ってしまうシーンなのだ。幼心に、この部分がどうしても許せなくて、作者はどうしてこんな酷い体験をアンにさせるんだろう、と、取り返しのつかないような思いにさせられたのを覚えている。戦火の中、命の次に大切な『赤毛のアン』の原稿を抱えて逃げた、という村岡花子さん。『アンの夢の家』の原稿に出会ったのは、もっとずっと後のことだろうが、この悲しいシーンをどんな想いで訳しただろう、と思うと胸が苦しくなった。

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