『ロビンソン・クルーソー』は、ニーチェが「神は死んだ」と宣う200年近くも前に書かれた小説であり、娯楽小説と言えども、やはりそこには敬虔なピューリタン思想が全篇に満ちている。主人公のロビンソンは繰り返し神の救いと刑罰に言及し、長い孤独な生活の中でやがて本当の神の教えに目覚めていく。
そういう宗教的な基調とは別に、この物語には、孤島に漂着した主人公が、家屋、家畜、小麦やパン、土器に至るまで生活に必要なあらゆるものをどのように一人でつくり調達したのか、その様子が実に細々と書かれている。何もここまで、というくらいに細々と書いているのは、たとえ創造小説であっても、出来るだけ科学的・実証的に物語を描こうという、当時の啓蒙主義的考えの表れだろう。はっきり言って読んでる私は食傷気味になるくらいなのだが、これが、アウトドア好き&仕組み好きの世の男性読者の興味を惹き、この本が長年愛されてきたゆえんなのかもしれない。
それから、先に述べた突然の貸借対照表の他に、物語終盤で、ロビンソンが所有するブラジルの農園の所有権や利益分配についてのやたら詳細な記述も印象的である。物語のクライマックスでこれ?と思うくらい、具体的な法的手続きについての詳細な説明が並ぶのだ。『ロビンソン・クルーソー』は、18世紀初めに書かれたフィクションでありながら、西欧の資本主義の萌芽が如実に現れた経済史的史料としても興味深い作品なのである。
と、ここまでダラダラと書き連ねて何が言いたいかと言うと、この古典的名作には、西欧近代の敬虔なピューリタニズムと共に、明らかな啓蒙主義、合理主義、そして資本主義的考え方が見事にないまぜになって成立しているのである。これらが矛盾なく両立しえることの違和感というのか不思議さというのが、私にとってはある意味長年のテーマでもある。その不思議さを解明したくて、マックス・ウェーバーの『プロテスタントの倫理と資本主義の精神』を読み、ジェイコブ・ソールの『帳簿の世界史』を読んでいるのだが、その不思議さは増すばかりである。
そして、これらの行き着く先に植民地主義がある。植民地主義は、グローバル資本主義と壮絶な格差社会として現在に生き残っている。そして、もちろん『ロビンソン・クルーソー』には植民地主義も顕著に現れている。
面白いのは、ロビンソンが食人を習わしとする蛮族を激しく軽蔑しながらも、それを許されている神の摂理との整合性に悩むシーンがあることだ。そして、たとえ食人が忌むべき風習であっても、神がそれを許している限り自分が彼らを裁く権利はないのだし、自分が攻撃されたわけでもないのに蛮族だからと言って無分別に殺すようなことは正しくない、として、スペイン人が行ったアメリカ原住民の大虐殺を厳しく批判しているのである。
しかし、ロビンソンの高邁な思索はそこでストップしてしまう。そして、自分の保身のために実際には攻撃される前に数多の蛮人を殺害し、食人の生贄とされかけていた蛮人の1人を救出して絶対服従の上に改宗させ事実上の奴隷にしてしまう。そこには一片の良心の呵責もなく、物語は大円団に向かう。敬虔なピューリタニズムと合理主義と啓蒙主義と資本主義とそして植民地主義の圧倒的勝利である。
小説の古典的作品が常にそうであるように、『ロビンソン・クルーソー』も、社会史的史料としても思想史的史料としても十分に参考になる作品である。
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