またまたマニアックな本をセレクトしてしまった。15、6世紀に南ドイツでハプスブルク家と共に栄えた富商フッガー家についての本である。ドイツ史には全く明るくない私がフッガー家に興味を持ったのは、ルネサンス期イタリアで栄えたメディチ家について調べていたからだ。メディチ家については、ティム・パークスの『メディチ・マネー』という面白い専門書があるし、ルネサンスの歴史について書かれた本でも、或いは金融や資本主義について書かれた本でも、よくお目にかかる名前である。しかし、フッガー家となると、特に日本語で書かれた書物では殆ど名前が出てこない。
ところがどっこい、全盛期のフッガー家は、メディチ家の比ではない富を誇っていたのである。本書に寄れば、最盛期1546年のフッガー家の「営業資本」(資産総額から負債総額を差し引いた額)は、概算で510万グルデン、全盛期のメディチ家(1440年)の5倍程度であったと言う。
ヨーロッパ屈指の富豪メディチ家とフッガー家は、色んな類似点がある。まず何より、その莫大な富を「金融業」で築いたという点。メディチ家が外国為替の両替商から財を成したのは有名だが、フッガー家も、元は商社的な事業で身を起こしつつも、ずば抜けた富を約束したのは、鉱工業の独占と金融取引だった。いずれも、教皇庁とハプスブルク家、当時の二大政治勢力と強力に結託した結果である。悪名高いチェーザレ・ボルジアの父親アレクサンデル6世を始め、歴代の教皇や枢機卿に莫大な貸付をし、聖職録や贖宥状(免罪符)、各種手数料の支払や徴収に関わる振替や送金業務を担い、ローマの造幣局業務も請負った。フッガーがローマで鋳造した貨幣は66種類にも及び、フィレンツェ商人より多かったと言う。教皇や枢機卿や司教らは、フッガー家への返済をする為に、贖宥状を乱発したのだから、宗教改革の要因として間接的な関わりがあったと言っても過言ではない。
メディチ家との類似点は金融業の他にもあって、その会社組織やネットワークの成り立ちである。メディチ家の組織形態について、ニーアル・ファーガソンの『マネーの進化史』から引用してみよう。
メディチ家が成功した最大の理由は、規模が大きかったというよりも、事業内容が多岐にわたっていたところにある。イタリアにおける初期の銀行は多角化していなかったから、一件の焦げ付きだけでも倒産するおそれがあった。メディチ銀行は複数のパートナーシップで構成されており、パートナーとの契約は定期的に見直されていた。各支店長は本店の雇用者ではなく、利益の分け前にあずかれるパートナーだった。この分権制が、メディチ銀行の増収に貢献した。
『マネーの進化史』 ニーアル・ファーガソン
メディチ家と同じく、広い地域で多角的事業を経営する為に、フッガー家も15世紀から会社組織化し、ヨーロッパ中に支店網を広げた。家族的な経営が中心だった時代に、できるだけ財産分割をせず、生き残った社員(兄弟)に強大な権限を与えて経営させることで、経営資源を集中したのである。パートナーシップ的な支店経営だったメディチ家に比べると、フッガー家の方がワンマン社長の同族経営的傾向が強いようだが、支店のネットワークを駆使した事業形態は、近代のの総合商社や財閥企業に通ずるものだと言えよう。
つまり、フッガーは実に80以上の都市に開設した「支店」や「代理店」と連絡をとり、情報を交換しながら商業と金融業を営んでいたわけである。分散した多数の市場の間を仲介する大規模な仲立商業のモデルが描かれている、といってよいであろう。(略)
ファクトライの代表がファクトル(Factor。支店長もしくは代理商)である。ファクトルは本店から派遣された者とは限らない。むしろそれは少数だった。現地の商業と金融の事情に通じていたばかりではなく、上流階級の間に交友の広い名士や情報通が選ばれて、フッガーの代理店の業務をまかされていた。
この広大なネットワークをより強固にし、また活用する一番の肝は、情報収集能力である。フッガー家の情報収集ネットワークは絶大で、「フッガー・ツァイトゥンゲン」即ち「フッガー新聞」と呼ばれる、世界各地から直接・間接に寄せられた報道をフッガー家が収集した全27巻からなる新聞集は、ヨーロッパだけでなく東洋の記事まで含まれており、16世紀のグローバルな瓦版とも言えるもので、現代でも貴重な史料となっている。イギリスの歴史学者ピーター・バークの『知識の社会史 知と情報はいかにして商品化したか』は、古今東西あらゆる「知」の収集と商品化の歴史を辿った興味深い書であるが、この中で彼は<商業と情報>と題して、フッガー新聞についても触れている。
産業と同じように商業は「もっていない情報を探し出し、もっている情報を守ること」と言われるようなことがらに依存していた。(略)商人の文化は書く文化であったし、それはすでに中世からそうだった。十五世紀のフィレンツェ人のジョバンニ・ルチェラーイの言った、よき商人の指はいつもインクで汚れている、という主張は、決して例外的なものではなかった。商売の道は紙の道であり、商売の流れは情報の流れに依存していた。
十六世紀に、ジェノヴァ、ヴェネツィア、フィレンツェなどの商家の人びとが、ヨーロッパやアジアの主要な商業都市から、自分の家に書き送った手紙は、まとめれば、実質的に「データバンク」になるほどの量である。(略)1568年から1605年のあいだに世界のさまざまな地域からアウグスブルクのフッガー家の本部に送られてきたフッガー家の回報は、国際的な取引において情報が重要だったこと、またその重要性が認められていたことを証する証拠である。民族的・宗教的な少数集団ーユダヤ人、パルシー教徒、クエーカー教徒、分離派教徒などーが周知の商業的成功を収めた理由の一つは、部外者には比較的接近しにくいような情報網を築き上げた点にあったのかもしれない。
ピーター・バーク 『知識の社会史 知と情報はいかにして商品化したか』
莫大な富を築く秘訣は、金融、ネットワーク、情報収集である。これは、後のロスチャイルド家にも共通する。メディチ家とフッガー家は、財を成した経緯にも類似があるが、衰退する経緯にも奇妙な類似点がある。いずれも、偉大な商業主が君臨した最盛期は意外と短く、政治権力と癒着しすぎるか、或いは自信が権力者と変わっていく。メディチ家は、イル・マニーフィコと讃えられたロレンツォの時代には、既に銀行業には陰りが見えていた。フッガー家も、ハプスブルク家との関わりが余りに強くなり過ぎたことで、皇帝と運命を共にする結果となる。フッガー家の決算書を見ると、16世紀後半には、ハプスブルク家への貸付が資産の大部分を占めており、《その前途に破局が待ちうけていたことは、スペインの財政危機、オランダ独立戦争によるアントウェルペンの衰退、そしてスペインの覇権失墜というこの時代の歴史を知る者には明らかであろう。》
最後に、宗教勢力に反旗を翻されてトドメを刺される、という類似点も見逃してはならない。フィレンツェのメディチ家はサヴォナローラによって。そして、アウグスブルクのフッガー家は、ルターが先導する宗教改革の波によって。金と権力が最高潮に癒着した結果、という意味では、当然のことなのかもしれない。
【参考】
- ピーター・バーク 『知識の社会史』については、松岡正剛の千夜千冊でも取り上げられている → こちら
- ロスチャイルド家の興隆については、本記事でも引用したニーアル・ファーガソンの『マネーの進化史』が参考になる
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