第161回直木賞を受賞した大島真寿美さん。2012年本屋大賞第3位に選ばれた彼女の出世作となった小説だ。
『ピエタ』をお得に読む『四季』で有名なヴィヴァルディを題材にしたもので、実在するヴェネツィアのピエタ慈善院で、ヴィヴァルディから指導を受けた<合奏・合唱の娘たち>として育った女性達の心温まる交流を描いている。主人公は、ピエタで育った孤児の女性だが、ヴェネツィアの裕福な貴族出身の女性や、コルティジャーナと呼ばれた高級娼婦など、色々な出自の女性が登場する。ヴィヴァルディの音楽からインスピレーションを得て書いた、と後に著者は、NHKのオーディオドラマ化に伴う対談で語っていたが、ヴィヴァルディの音楽の調和と美しさを体現したような、柔和で均整のとれた文章と温かみのある物語になっているがとても印象的だ。
ヴィヴァルディが生きた18世紀のヴェネツィアを舞台としているのだが、物語の女性主人公達は、まるで現代の日本の女性のような卑近な存在として描かれている。会話の仕方も、心理描写も行動原理も、現代の女性が読んでいて全く違和感がない。ここは好き嫌いが分かれるところかもしれないが、歴史小説ではなく、ごく身近な人間的ドラマを描いた小説である。
私としては、この作品が、日本でここまで人気になった、ということ自体がなんだかとても興味深い。確かに、ヴィヴァルディは、クラシック好きでない人でも『四季』を聴けばああこの曲か、と分かるくらいに有名だし、ヴェネツィアは昔から西欧のあらゆる芸術家達を魅了してきた特別な都市である。それでも、多くの日本人にとって、18世紀のヴェネツィアという舞台設定は、どう考えても親近感を抱くには程遠い。巻末に一応参考文献の一覧を載せてはいるものの専門的な書籍は殆ど無いし、この小説が、クラシック音楽やイタリアの歴史に詳しい人向けに書かれたとはとても思えない。それなのに、敢えてテーマに「ヴィヴァルディ」を、舞台を「ヴェネツィア」にもってきた理由は何なのか。これは、ヴィヴァルディやその時代のヴェネツィアの姿を描くことを目的とした小説ではなく、ヴィヴァルディとヴェネツィアの「イメージ」を物語化した小説なのである。そして、それがウケた。
これは、つまり、日本人の一般的な読者に、ヴィヴァルディとヴェネツィアの「イメージ」がしっかりと根付いている、ということの表れでもある。ヴィヴァルディの音楽がメジャーなのは、華やかな結婚式やレストランのBGMとして『四季』がすっかり固定化されたイメージになっていることからも分かるが、ヴェネツィアの方はどうか。『ヴェニスの商人』や『ヴェニスに死す』の本を実際に読んだことがある日本人は意外と少ないのではないか。むしろ、須賀敦子の『ヴェネツィアの宿』や矢島翠の『ヴェネツィア暮し』など、女性作家の鋭敏な感覚で綴られた秀逸なエッセイの方が、『ピエタ』を喜ぶ読者層にはお馴染みなのかもしれない。
そして、日本人読者のヴェネツィアのイメージを大きく左右したものと言えば、何と言っても塩野七生の『海の都の物語 ヴェネツィア共和國の一千年』ではないだろうか。大島真寿美も、巻末の参考文献としてこの本を挙げているが、数ある塩野七生の本の中でも、取材力、歴史考証力、物語としての構成力、全て圧巻の素晴らしい大作である。多くの日本人にとってゴンドラとガラス細工と仮面カーニバルの印象しか無かったヴェネツィアという都市について、その壮大な歴史と栄光を見事にクローズアップして見せた。海洋技術から政治の仕組みまで、実用的かつ専門的な史実を詳しく論説しながらも、読者を飽きさせない構成力と物語性も両立させるという彼女独特の小説スタイルが際立っている。
そう考えてみると、塩野七生の作品が影響を与えたのは、何もヴェネツィアに限った話ではない。学校でイタリアの歴史を詳しく学ぶ機会など殆ど無いのに、ヤマザキマリの『テルマエ・ロマエ』や惣領冬実の『チェーザレ』などの漫画作品がヒットした背景には、どうも塩野七生の『ローマ人の物語』や『チェーザレ・ボルジア 優雅なる冷酷』といった作品で、あらかじめ潜在的読者層が開拓されていたことがあるのではないかと思う。
で、話がものすごく脱線して、何が言いたいかと言うと、塩野七生大先生は偉大だ、ということなのである(笑)何を隠そう、高校の頃に塩野七生にハマりまくり、先生を慕うあまり、東大の滑り止めとして密かに学習院大学歴史科の試験を受けた私である。当時は、滑り止めの大学としては、だいぶ偏差値や入試難易度に差があったのだが、「塩野先生が学んだところなら」と、自ら気負って選択したのは忘れられない。でもほんと、極東の日本で、一般的な読者層にイタリアの歴史をこれだけ流布した功績はすごいと思う。この『ピエタ』を読んで、塩野七生をもう一度読み直したくなった私だが、この世界に入っていくと長くなりそうなので、積読本の山を前に怯んでいる。
あまりに本書と関係の無い話になって恐縮なので、本書の書評については、 ななたろさんという方のブログ書評記事 が大変参考になるので、最後にこちらを紹介しておきます。
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