書評・エッセイ 『ヴェネツィア暮し』 矢島 翠


大好きな一冊。最近、『神の代理人』を再読して自分の中で塩野七生さんを解禁してしまったので、それにつられてまた読みたくなった。評論家兼ジャーナリストでもある矢島翠さんが、1983年から約8ヶ月間、ご主人の仕事の関係でヴェネツィアの街に暮らした思い出を綴ったものだ。

冒頭の「まちへ」の章で書かれているように《どこに行こうと、あなたはことばに突き当らざるを得ない》ヴェネツィア。欧米では、あらゆる文人や芸術家がこのヴェネツィアを語ってきた。それでも敢えて《このまちをめぐって書かれてきたおびただしい書物の群れに、またもや、ささやかな一冊を、付け加えること》を著者に選ばせる、そういう魅力がこの街にはあるのだ。

この本の素敵なところは、ヴェネツィアを彩る文学や芸術についての著者の豊富な知識や感性と、とても現実的で生々しい街の暮らしを描くジャーナリスティックな観点が、見事に両立しているところ。東京大学で女学生を受け入れるようになったばかりの段階で入学し、卒業後に共同通信社で各国を巡って仕事をされた、というとんでもないインテリなだけあって、決して大袈裟には構えず終始抑えた文体でありながら、バックにある文学や芸術についての知識も批評眼の確かさが伝わってくる。

彼女が「アルビヨンの詩人たち」と風雅な名前で呼ぶ、ラスキンやバイロンやシェリーといったイギリスのロマン派詩人たちに始まり(アルビヨンとはイギリスの雅名である)、シェイクスピアの『ヴェニスの商人』やマルセル・プルーストの『見出された時』、森鴎外が訳したアンデルセンの『即興詩人』、それからトーマス・マンの『ヴェニスに死す』などはもちろんのこと。モンテーニュ、オスカー・ワイルド、ヘンリー・ジェイムズあたりは私も聞いたことがあったが、イタリアの未来派詩人マリネッティや、ドイツの哲学者ゲオルク・ジンメル、フランスのナショナリストモーリス・バレスまで、《およそこのまちを訪れるもの書きというもの書きが述べずにいられなかったもろもろの感慨》を知悉されているのがすごい。

矢島翠さんの守備範囲は文学だけにはとどまらない。映画の制作や映画史講義などにも携われたただけあって、ヴィスコンティやデヴィット・リーン監督『旅情』などのメジャー映画はもちろんのこと、リリアーナ・カヴァーニの『善悪の彼岸』やミケランジェロ・アントニオーニ『ある女の存在証明』など、日本では中々お目にかかれないイタリア映画にも言及されている。絵画についての批評も的確で、ヴェネツィアの街とセットで持て囃されてきたティントレットにおけるマニエリスムを批判的に眺めたり、伝統的なヴェネツィア派カルパッチョの筆致とリアリズムを賛美したり、オーソドックスな美術絵画にも詳しいところを見せたかと思うと、ヴァニエル屋敷のペギー・グッゲンハイムのコレクションで、当時の日本人が殆ど知らなかったデ・クーニングやロスコやポロックなどといったモダンアートに親しんでいる。それから、今ではすっかり有名になったヴェネツィア・ヴィエンナーレやヴェネツィア映画祭。

音楽については、ヴェネツィアと言えば大島真寿美さんの『ピエタ』で取り上げられた作曲家ヴィヴァルディが有名だが、残念ながらヴィヴァルディについては記述がない。代わりに、「歌」という章でオペラが詳しく取り上げられている。優美で古風なフェニーチェ劇場で幕が降りたあと《舞台の上にひととき存在していた虚構の過去は、フェニーチェの内部からまちのなかへと、夜の水の湯にとぎれなく続いていく》、その風雅さ。

こうやってまとめて書き出してみると、まるでヴェネツィアの文化を小難しく語った本みたいに思えるかもしれないが、あくまでこれらのエピソードは、さりげなく全体に散りばめられているに過ぎない。最も印象的なのは、タイトル通りの「ヴェネツィア暮し」を綴った生き生きとしてなおかつ静謐な趣きある文章の方だ。

全世紀末頃に建てられた三階建ての大きな屋敷を、複雑な縦割りと横割りを錯綜して数家族用に仕切った住居。すぐに浸水する一階にはガスのボイラー室とトイレと《最初見るなり、泊り客が何組かかさなっても、ここだけは決して使うまい、と心に決めずにはいられなかったほど、陰湿で、独房めいた》小部屋が一つ。内部の家具や調度品はヴェネツィア風の古風な趣味のもので《わが人生で最も優雅な居心地の借家》ではあるものの、使用人もいない3階暮しは、郵便配達や修理人が来るたびにすべりやすい石でできた数多くの階段を踏み外さないように急いで降りていかなければならないし、買い物やゴミ出しや掃除にもいちいち不便さがつきまとう。

「路」の章では、毎月の家賃を支払うための銀行や伴侶が勤める大学への道詳述し、《五度目、六度目と場数を踏んだあとでも》《うまく、曲がれるだろうか?》と胸騒ぎを感じるほどに道が分かりにくく入り組んだ街の様子を描いている。カッレ、フォンダメンタ、リーヴァ、ソットポルテゴ、リオ・テッラ、ラモー、ルーガ、サリッザーダ、これ全てヴェネツィアにおける通りや路の呼び方である。これを読んで、エスキモーの間では雪を表す言葉が何十種類もある、というエピソードを思い出した。

「店」の章を読めば、車も大型店も無い旧市街での買い物は、小売店から小売店へと荷車を曳いて歩き回る実態が伝わってくる。骨が折れる代わりに、《目的地には、整然たる店構えのなかに、吟味された商品と、プロの知識と、サーヴィスとが待っている》。せっかちで大型ショッピングモールで何もかもまとめて用事を済ませてしまう私には、このような優雅な生活にはとても馴染めそうもない。

「芥」の章では、文字通り、ヴェネツィアのゴミと下水処理という現実的問題にも触れている。古式ゆかしい風雅な街に隠された<たれ流し>疑惑。《実は、この章を書く前に、ヴェネツィアの下水の構造についての質問状を、返信用の封筒と国際クーポンも添えて、市役所の土木課、衛生課、環境団体等にあてて出してみたのだが、数うてば当るだろう、というはかない希望に反して、ついにどこからも、返事は来なかった》なんてエピソードも、共同通信の特派員として海外で活躍してきた矢島翠さんらしい生真面目さ、そしてそれが全く通用しないイタリアらしさ、を如実に示していて面白い。

こういう現実的で生活感溢れるエピソードが、著者の深く広い確かな教養によって鮮やかに美しく色づけられ、格調高い文章で語られている。まさに、この本のこういうオリジナルな点に、《このまちをめぐって書かれてきたおびただしい書物の群れに、またもや、ささやかな一冊を、付け加えること》の意義があると思う。

どの章もそれぞれに楽しいのだが、特に私が好きなのは「東」という章で、中国料理や日本料理といった卑近な話題から、天正少年使節や岩倉使節団、或いはヴェネツィアで日本語教師として一生を終えた緒方洪庵の息子緒方惟直や彼の墓参りに訪れた森鴎外、といったヴェネツィアと日本の関わりについての知られざるエピソードや歴史まで触れている。ヴェネツィアに行ったことがあるのにこの本を読んだことがないのは実にもったいない。ヴェネツィアに少しでも思い入れがある方にはぜひ読んでほしいとっておきの本なのである。

Follow me!


%d人のブロガーが「いいね」をつけました。