書評・新書 『美術の力』 宮下 規久朗


大学時代に美術史を専攻しながら、美術史の本があまり好きではない私。宮下規久朗氏は、高階秀爾氏と並んで、読みやすくかつ読み応えのある本が多く、愛読している。

本書は、宮下氏が2016から2017年にかけて新聞から雑誌、絵画展のカタログまで寄稿した様々な記事を纏めたもので、幾つか書下ろしも追加されている。新書なので、専門的・学術的な内容ではなく、浅く広く触れられているが、専門家が敢えて専門外の分野について語ってくれているところが、返って示唆に富んでいて面白い。

色々な地域や都市を特集した記事が多くあって、著者の豊富な知識と共にちょっとした「美の旅」気分が味わえるのも本書の読みどころの一つだ。例えば、イスラエルのヴィア・ドロローサはキリスト受難の道を辿る世界中のキリスト教徒にとっての憧れの道。しかし、現在では、道の途中はイスラム教地区になっていて、市場(スーク)の喧騒に包まれている。この場所の歴史の複雑さを物語っていると言えるだろう。

このヴィア・ドロローサの終点にある聖墳墓教会が、十字軍時代の十二世紀の建築を留めている、という歴史の古さにも驚きだが、章変わって、イタリアはポンペイの近隣にあるエルコラーノ(ヘルクラネウム)の、古代ローマ時代に描かれた壁画の水準の高さには本当にびっくりした。《ラファエロにも匹敵すると称えられた。そして、それはイタリア美術の偉大な源流であると考えられた》エルコラーノの有名な壁画は、通常はナポリの国立考古学博物館に所蔵されているという。(2016年に「世界遺産ポンペイの壁画展」で来日した)

ナポリから北上してボローニャからは、後期イタリア・バロックを代表する巨匠グエルチーノが紹介されている。日本ではあまり有名ではないグエルチーノだが、前半の大胆なバロック様式から、後半の古典回帰的な優美さと色彩の調和に満ちた大画面の作品は、ローマのパラッツォやボローニャのサン・パウロ聖堂で是非一度実物を見てみたいものだ。

同じボローニャ出身、二十世紀の静物画家、ジョルジュ・モランディの名前も初めて聞いた。セザンヌの静物画に似た厳密な構成美と、イタリア美術らしい明るさと光とが両立していて、なんとも不思議な魅力ある作品に仕上がっている。

海外だけではない。国内では、四国の金刀比羅や函館についての記事もある。海上交通の守神として古来から親しまれてきた「こんぴらさん」には、海難事故に遭った者の奉納した多くの海難図絵馬のほか、伊藤若冲の<花丸図>襖絵、円山応挙の襖絵が所蔵されている。日本近代洋画の先駆者、高橋由一が、自らが主宰する画塾への資金援助を期待して、油彩画35点を奉納していた、という事実も興味深い。函館では、修道女となってロシアでイコンを学んだ女性画家、山下りんの代表作<生神女福音祭>を函館ハリストス正教会に訪ねたり、カトリック元町教会で静かな「祈りの空間」に浸ったりする。

国内と言えば、もう一つ、この本の面白いところは、日本美術に関しての記事が多く掲載されているところだ。著者は、承知の通り、日本におけるカラヴァッジョ研究の第一人者で、専門は西欧の宗教美術なのだが、本書では、大6章の構成のうち2章を日本美術に割いている。

特に、浮世絵の最も主要なジャンルであった春画、大衆的な浮世絵師として、明治期に庶民の欲望を反映した大胆な作品を多く残した月岡芳年、日本よりも欧米で評価の高い河鍋暁斎、日本にエコール・ド・パリの風を呼び込みながら、戦争絵画を多く描いたことで評価を難しくした藤田嗣治、日本国内でのキリスト教徒受難を物語る南蛮絵や踏絵など、従来の日本美術とは少し違う観点から触れられているのが実に面白い。西欧、特に西欧の宗教美術専門家である著者らしい視点だと言えるだろう。宮下氏がイタリア美術史専門ながら、日本美術にも造詣が深いのに驚いたのだが、大学院を出た直後の勤め先兵庫県立近代美術館で、隣に座っていた木下直之氏に日本近代美術の面白さを伝授され、一緒に「日本美術の19世紀」展を企画したエピソードが掲載されているのも興味深い。《木下氏はその後、東京大学に移り、文化資源学という新たな学問を立ち上げ、写真や城郭や銅像などについて刺激的な著書を発表している》とあるが、私が東京大学在学中にも、氏の文化資源学講座は大変人気であった。

専門外のところで色々興味深い視点を提示してくれる著者だが、やはり宗教美術についての考察はずば抜けて面白い。

宗教改革が《不寛容な原理主義という面を持ち、多くの美術作品を破壊した恐ろしく野蛮な運動であった》という側面を持つことは知っていた。しかし、《ヴィーナス》や《ルクレティア》といった異教的で官能的な裸体画で知られるルーカス・クラーナハがルターの友人でもあったことや、ハンス・ホルバインがイギリスに渡って肖像画を、アルブレヒト・アルトドルファーがドイツ的汎神論的世界観に裏打ちされた純粋風景画を描くようになったことなど、宗教改革がドイツならびにヨーロッパの美術史全体に及ぼした影響はもっと見直されて然るべきなのかもしれない。

『聖と俗 分断と架橋の美術史』の記事でも触れたが、ウォーホールの深いキリスト教信仰など、現代美術の宗教性に着目しているのも面白いところである。南フランスのヴァンスにあるマティスが手掛けたロザリオ礼拝堂、アメリカはヒューストンにあるロスコ・チャペルは、《二十世紀の教会装飾の双璧をなすもの》だという。キリスト教徒ではない私でも、死ぬまでには一度訪れてみたくなる場所だ。

場所と言えば、本書で宮下氏は、美術における<場の力>というものについて、何度も形を変えて言及している。現在では観光客目当ての眉唾物の建築物が並ぶキリスト生誕地のベツレヘムにも、《場所の持っている力、いわゆるゲニウス・ロキというもの》がある。アメリカの抽象表現主義の大家マーク・ロスコは、《単一の絵画ではなく、複数の絵画をそれにふさわしい光や空間が取り巻く「場」が必要であると考えていた》

私は三十年以上にわたって毎年のように西洋の美術作品を巡って歩いてきたが、美術作品も、それが位置する場所の力と相まってオーラをまとうようである。

もちろん、作品自体の質はどこに移動しても変わることはないが、出開帳や展覧会では決して味わえない要素がある。寺社でも美術館でも、その作品が本来置かれてきたばこそが作品に生命力を与えるのだ。作品からこうした場の引力や属性を剥ぎ取って、他の作品とともにニュートラルな空間に並べることによって、作品の純粋な造形的な特質をあきらかにするという信念が近代的な美術館や展示という精度を支えてきたのだが、それによって失われるものも大きいのだ。

美術史学というのは、まさに作品自体を「ニュートラルに」解釈しようとする学問なので、美術史の専門家がこういうことを言うのは極めて難しい。と言うか、当たり前だが、学術書でこんな非論理的な発言をするわけにはいかないのだ。専門家である宮下氏が、こういうことを寄稿した文章の中で述べているのはとても貴重だが、それだけ説得力もあって深く頷ける。

津軽の供養人形、日本の絵馬的なルーツをもつ西欧の奉納絵<エクス・ヴォート>など、俗的信仰と美術の境界線にあるようなジャンルに触れているのも、前出の『聖と俗 分断と架橋の美術史』と同じだが、本書では、さらに、アール・ブリュット(アウトサイダー・アート)についても言及している。スイスのベルン近郊に生まれ、20代の時に少女への暴行によって逮捕されて服役し、その後、没するまで35年間精神病院に収容されていたというアドフル・ヴェルフリの曼陀羅のような抽象画。或いは、和歌山カレー事件の林眞須美や替え玉保険金殺人事件の原正志など死刑囚による絵画作品。ここまで来ると、大学の専門的な研究対象にはしにくいだろうが、人間の信仰、心の闇の深さ、表現と美術の関わり、を考える上では、非常に重要なテーマだと言えるだろう。

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