書評 『フランス絵画史 ルネッサンスから世紀末まで』 高階 秀爾 ②


ロマン主義やバルビゾン派が出てくるあたりから、革新的な絵画が「主題」ということの新しさと「表現」ということの新しさの二つの潮流に分かれていくところは、とても興味深い。ある時は、「主題」の目新しさが、斬新な「表現」を生むかと思えば、革新的な「表現」を追求することで、「主題」そのものが変化していくこともある・・・印象派の中でも、マネやモネが「主題」よりもむしろ「表現」としての新しさが意識されている一方、ドガやゴーギャンは、より「主題」の新しさに傾倒しているように思える。勿論、簡単に二分できるような問題ではないのだが。

 

また、ロマン主義が、いかに、次の時代の新しい芸術、「芸術家個人の感性」がクローズアップされる時代を準備したかについての記述も見事である。
《「悪の華」の詩人シャルル・ボードレールは、1846年のサロンを論じた批評の中で、ロマン主義とは何かという問題を提起して、「ロマン主義とは、主題の選択の中にあるのでもなければ、正確な真理の中にあるのでもない。それは、感じ方の中にあるのだ。」と断定した。18世紀の前半、特に20年代から30年代にかけて、フランスのみならずヨーロッパ全体を風靡したロマン主義運動は、さまざまの複雑な要因を含んではいるが、本質的には、ボードレールの言う通り新しい感受性の勝利であった。・・・ロマン派の画家たちは---そして画家のみに限らず、詩人や音楽家たちも---まず自己の感受性をよりどころとして、新しい美の世界を求めたのである。》
私の中では、「写実主義」を突き詰めた結果が、現実と完全にかけ離れた「印象主義」の絵画に繋がる、というのが、今まで感覚的にどうしても腑に落ちなかったのだが、ゾラの『制作』を読むことで心情的に、そしてこの『フランス近代絵画史』を読むことで理論的に、初めてそのことに納得できた気がする。
《印象派の立場は、自己を一個の「目」に還元して、外の世界を忠実に再現する「客観主義」であるといっても、ラフォルグが指摘するように、「この世の中に、器官として、または視覚能力として、全く同一の目は二つと存在しない」とすれば、その「客観主義」は、そのまま、それぞれの「目」だけの世界、すなわち、画家個人の、それもある瞬間における画家個人の世界という最も極端な「主観主義」に転化せざるを得ない。点一点の画面は、逃げ去ってもはやふたたび戻って来ないある特定の瞬間におけるきわめて特殊な視覚の記録であって、同じ画家でさえも、もう一度同じ対象を同じ視覚で眺めることはできない。・・・何よりも現実に密着していた筈の印象派の画面は、このようにして、最も現実から遠い幻影の世界に次第に入り込んでいく。そして客観的世界から主観的世界へのこのような転換こそ、近代絵画そのものの担った大きな運命だったと言えるのである。》

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